2024年12月15日「神が目に留めてくださった」

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神が目に留めてくださった

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章46節~56節

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【新共同訳】
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 1章46節~56節

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<説教要約> ルカ1:46-56 「神が目を留めてくださった」
先週は、マリアが、天使に告げられた言葉を確認するため、親類のエリサベトを訪ねた、という箇所を見ました。今朝はその続きで1章46~56節。マリアがエリサベトに会って、自分に告げられた天使の言葉、神の言葉が実現すると信じ、神を賛美している個所です。

最初に、46~56節の構造を確認しておきます。46節に「そこで、マリアは言った。」とあります。
この後、47~55節がマリアの言葉。マリアの神賛美。最後56節はその後のマリアの行動が記されています。
47節から55節がマリアの賛歌で、47~49節2行目は、マリアが自分に与えられた神の恵みを賛美している部分。49節の3行目~55節は、神を信じるすべての人に与えられる恵みを賛美している部分です。
そして、特に今日の箇所では、聖書の神、キリスト教の神様はどのような神なのか、どのようなお方なのか、を知ってほしいと思います。

1章47~49a節マリアは、天使の言葉通り自分が身ごもっていること、さらにその子が「メシア、救い主」であることを理解したうえで、大きな喜びを言い表しています。
全能の神、何でもお出来になる神が、「メシア、救い主」を世に送ってくださる。これは旧約聖書に預言されていますから、ユダヤ教徒であるマリアも教えられていることでした。けれど、その大いなる神の業が実現するとき、神はマリアに目を留め、彼女をその母として用いられる。
「目を留める」とは「心にかける」という意味もある言葉です。まことの神が、私に目を留め、私を心にかけてくださり、大きな役割を与えてくださった。マリアは、戸惑いつつも、しかしこのことを喜こび、神をたたえています。
「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」
「身分の低い」とは、特別でない、普通の、あるいは普通以下の、というような意味です。
マリヤは、「なぜこんな私を神は選んだのだろうか。神の御子、メシア、救い主の誕生であれば、この世的にもっと高貴な身分の女性を選べばいいのに、と思ったかもしれません。ですけれど、神のご計画と人間の思い、神の価値観と人間の考えは、違うのです。
マリアは言いました。49節「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」と。

1章49b~55節でマリアは、 神を信じるすべての人に与えられる恵みを覚え神を賛美しています。
49節の三行目に「その名は尊く」とありますが、口語訳、新改訳、聖書協会共同訳は「聖く」と訳しています。もちろん神は尊いお方ですが、実はここは、旧約聖書の言葉がもとになっていますから、「その名は聖く」のほうが正確です。そして「神の名」とは、神の名前のことではなく、神の名=神の御性質です。
つまり旧約聖書は、神の御性質が「聖」であると教えており、マリアもここで、旧約聖書に示されている言葉で神を賛美しているのです。
では、神の御性質である「聖」「きよさ」とはどういうことでしょうか。今朝は、この「聖」「聖さ」という神のご性質に注目したいのです。
聖書の神は、「聖なる神」「聖い神」なのですが、その「聖さ」は、汚れがない、罪がない、というだけではありません。実は、このことに関して、旧約聖書のホセア書が重要です。
ホセア11:8-9「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」
神は、何度も神に背を向け、偶像に向かおうとするイスラエルの民に対して、「わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。」「わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」と語っておられるのです。
主なる神である私は、私に逆らい背を向ける民に対して、心動かされ、憐れみをかける。怒りをもってお前たちに臨むことはしない、と言っているのです。
そしてこれが、キリスト教の神の「聖」です。神の聖というご性質は、罪なく聖さを保ち、罪ある人間を裁く、ということではないのです。
実際には、その逆で、罪ある人間を憐れんで、何とか救おうとする神。弱さを持った私たちに、目を留め、弱さを思いやり、共に歩もうとされる神。それが「聖なる神」なのです。

1:50その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
「主を畏れる者」とは、怖がる、ということではなく、「神を信じ従う者」ということです。
神の憐みは、神の存在を信じ、神の教えに従って歩もうとする、罪ある私たちに向けられています。
それも、世々限りなく、です。

51節は、逆に読むと、「思い上がるものに対して、神は力をふるい打ち散らす」となります。思い上がる者とは、すべて自分の力でやって行けると考えて生きていく者のこと。今自分が手にしているもの、たとえば財産、名声、健康な体、などなど、すべての善きものは自分の力で手にしたものと考え、すべて我がもののように振る舞う生き方のこと。そういう生き方をしている人を、神は、力をもって打ち散らすけれど、自分の弱さを知り、そして神により頼んで歩む者には憐れみを持って臨まれる。
それが、聖書の神のご性質です。
さらに、52~53節 「権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」
地上で権力を我が物顔でふるう者と、権力を振るわれる立場の者。餓えたものと富める者。
神ご自身は、力ある神であり、何でもお出来になる方ですが、その神が身分の低い者、貧しい者、弱い立場の者を憐れむ方だと、マリアは神を賛美しています。

それで、今日の話の中で、特に、「聖なる神」の意味を覚えたいと思います。先ほどはホセア書を引用して、神の御性質を説明ました。神は、聖なる神だけれど、怒りをもって私たちに臨むことをしない方。逆に、赦す神、救おうとする神なのです。
新約聖書にも、神は裁く神ではなく、救う神だということが教えられています。
その中で、代表的な個所は、ヨハネ福音書3章16‐18節です。
神は、私に「目を留め」、私の命と人生の歩みを「心にかけてくださり」、イエス・キリストを通して救おうとしておられます。そのために、イエス・キリストがクリスマスの夜に地上にお生まれになったのです。神の救いの御業を覚え、神の憐れみを信じて、私たちも神を賛美いたしましょう。

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