主の言葉は実現する
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- 木村恭子 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 1章39節~45節
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 1章39節~45節
<説教要約>2024年12月8日 アドベント② ルカ1:39‐45
「主の言葉は実現する」と信じた人は幸い
先週から待降節、アドベントに入りました。今朝の説教は、先週の続きでルカ福音書1章39節からです。
マリアは天使から、親類であるエリサベトが妊娠したことを聞かされました。
1:36‐37節「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアはこの言葉を確かめるため、急いでエリザベトのもとへと向かいました。といっても、エリサベトの家は隣近所ではありません。伝承によれば、ガリラヤのナザレから105㎞ほど南にあるアイン・カリムという場所で、風光明媚な山里だそうです。それでも、マリアは急いでエリサベトの家に向かったのです。10代前半の少女が一人、徒歩で100㎞もの道を。彼女は、すぐに神からの言葉を確認したかったし、エリサベトに会えば、自分のことも確認できるかもしれないという思いもあったのでしょう。ですから旅を急ぎました。
1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
やっとの思いでエリサベトの家にたどり着き、まず挨拶の言葉を口にします。
ところが、急な訪問の理由をまだひとことも説明していないのに、こんなことが起こったのです。
1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
エリサベトはこの時すでに妊娠6か月になっていましたから、彼女の体内で子どもが動いたとしても不思議ではありません。ですが、ここは、ただの生命現象ではなく、聖霊の働きが介入しています。
1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1:42 声高らかに言った。
少なくとも医者であるルカは、これが単なる生命現象ではなく、神の働き、聖霊の働きだと考えているのです。
ちょっと細かい話になりますが、「おどった」と訳されているこのギリシャ語は新約聖書の中でルカだけが使っていて、今日の個所41節、44節の2か所と、もう一個所はルカ6章23節の3か所にあります。
ルカ6:23の「喜び踊りなさい。」という言葉です。
同じギリシャ語の言葉、しかも聖書に3か所しか使われていない言葉なのに、新共同訳聖書の翻訳はルカの1章は「おどった」をひらがな表記。そして6章ではダンスなどを「踊る」という、漢字表記になっていて、ちょっと不思議です。ところが、2018年に出版された聖書協会共同訳聖書では、この三か所すべてに「躍動する」という意味を持つ「躍る」という漢字が使われています。
さらに言うと、ルカ6章23節の引照個所としてマラキ書3章20節がありまして、こちらは、新共同訳聖書も、聖書協会共同訳聖書も「躍動する」ほうの漢字「躍る」が使われています。
マラキ3:20(新共同訳)「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。」
では、「躍る」と「踊る」の二つの漢字、意味は同じなのでしょうか? 日本語の辞書で二つの漢字の違いを調べると、こんな風に書かれています。「『踊る』と『躍る』は同音異義語で、どちらも『おどる』と読みますが、意味と使い方が異なります。「踊る」は音楽やリズムに合わせて手足や体を動かすこと。他人に操られて行動することの意味でも使われる。「躍る」は勢いよく飛んだり跳ねたりすること。喜びや期待などで鼓動が激しくなることの意味でも使われる、と。
ちょっと複雑な話になりましたが、ここでエリサベトに起こったことは、マリアのあいさつを聞いたとき
彼女は聖霊に満たされて、胎内の子が、喜びや期待で鼓動が激しくなるほどの状態になった。さらに、聖霊の働きによって、マリアに宿っている命が、普通の赤ちゃんではなく、メシア・キリストであることが分かった、ということです。
それで、エリサベトは「声高らかに言いました」
1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
エリサベトの言葉、「わたしの主のお母さまが」は、「マリアの胎内の子は救い主、メシアであり、マリアはメシアの母なのだ」と言っているのです。
それも「声高らかに」。直訳すると「この上もなく大声で叫んで言った」となり、尋常な状況ではありません。エリサベトは聖霊に満たされて、聖霊にそのことを教えられて、叫んだのです。
ですから43節は、エリサベトによる預言の言葉、ということもできるでしょう。
今日の話の中では、最後の45節が重要です。ただし、注意が必要です。
新共同訳聖書は45節を「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と訳していて、「信じた方」とはマリアのことと思われます。
しかし、このギリシャ語の文章では、マリアのこととも、エリサベトのこととも取れるのです。
ですから、聖書によって翻訳が違います。四つの翻訳を記します。
【新改訳2017】 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
【新改訳改訂3】 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
【口語訳】主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。
【新共同訳】主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
新共同訳聖書のように「信じた方」と訳す場合、マリアの信仰になるでしょう。
「信じた人、信じた女」であれば、エリサベトが自分のことを言っているのかもしれない。
エリサベトは夫ザカリアが信じられなかった天使の言葉が、その通り、今自分の身に実現している。
つまり主がおっしゃったことは必ず実現する、ことを体験している最中ですから、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じていて、そういう自分は幸いだ、と思ってます。ですから、ここはエリサベトの信仰でもあるわけです。
そして、そんなエリサベトに会って、マリアもまた、天使によって語られた主の言葉は確かで、必ず実現する、と信じたことでしょう。
ですから、これは、マリアの信仰でもあり、エリサベトの信仰でもあるはずです。
そして、『主の言葉、神の言葉が実現する、と信じる人は幸いな人』というのが、ここでの中心テーマです。
主の言葉とは、メシア・キリストの言葉。そして今の私たちで言えば、神の言葉、聖書にしるされている言葉と言い換えられます。
今、私たちに与えられている旧新約聖書にしるされた、神の言葉。
たくさんあって、そのすべてを読み解くことはできません。
ですが、聖書の中で私たちに与えられている神の救いのメッセージ。
旧約聖書の中で準備され、預言され、イエス・キリストによって実現した神の救いの御業。
イエス・キリストの十字架と死、復活。それが、私たちの罪を赦すためであり、私たちを再び神の恵みの中に連れ戻すためであること。
イエス・キリストを主、私の救い主と信じることで、私の人生の歩みに、神が伴ってくださること。
これら、聖書の中心的なメッセージを私たちがどう理解し、信じるのか。
そして、言えることは
1:45「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
【新改訳改訂3】1:45「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」 です。
今、世界を見渡すとき、ウクライナの戦争も、パレスチナの戦争も、収まる気配がありません。
北朝鮮とロシアとの関係は深まり、お隣の韓国の尹大統領が突然軍隊を導入し非常事態宣言を出す、という考えられないようなことが起こりました。決して平和とは言えない世界情勢の中で、これから世界は、日本は、どうなっていくのでしょう。
また、昨年の1月1日に突然起こった能登半島大地震。あれから1年が過ぎようとしていますが、いまだ復旧が進まず、つらい生活を余儀なくされている方々がおられます。
あるいは、家族や自分のことを考えても、この先の人生には不安要素がいろいろあるでしょう。そういう中で、果たして何が真実で、何が確かなことなのか。何を信じて生きていたら幸いなのか。
そして幸いに地上生涯を終えることができるのでしょうか。
先ほど引用したマラキ書3章に、このような主の言葉が記されています。
マラキ3:17‐18「3:17わたしが備えているその日に/彼らはわたしにとって宝となると/万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように/わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度/正しい人と神に逆らう人/神に仕える者と仕えない者との/区別を見るであろう。」
マラキ3:20「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。」
この地上世界は、最後に神の介入によって区切りがつけられます。その時に「躍り出て飛び回る」ことができるのは、「主がおっしゃったことは、必ず実現する」と信じて、神に従い、神と共に生きた者たちです。
ですから、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」であり、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」なのです。