2、では、本日の聖書箇所、詩編116編の中身を確認しましょう。 イ、どなたが、いつ、どこで書いた歌でしょうか?モーセ?ダビデ?エレミヤ?他の多くの詩編 のような表題の言葉が今回ありませんが、エルサレムの礼拝者の中で救われたことの証を語り、感謝の捧げ物をすることを歌っていますから、ダビデ時代以降のことでしょう。けれども、ダビデ王なのか、アサ王なのか、ヨシャパテ王なのか、ヒゼキヤ王なのか、特定できません。これらは皆、主に祈り求めて、不思議な救いが与えられたことを経験した人たちです。あるいは、主の民の一般人にも十分にありうる経験です。 ロ、結局、この詩編は主の民誰にでも歌える歌です。民の「古代の賛美歌」と言える詩編集のそれぞれの歌はいつの時代にも主の民の歌となっていただけます。そして、これはよくある現象ですが、イエス様にも唱えることがありうる祈りです。つまり、来るべきキリストの歌です。死から解放された蘇りの主の感謝の歌です。 ハ、この歌の内容から得る基本的な知識をまとめると、次のように言えます。祈りに応える主が おられます。この方に頼るべきです。いつの時代を生きた主の民の声が揃ってこのように教えてくれます。主の救いは主に頼り、主を信じて呼び求める人に必ず与えられます。つまり、信じて、頼んで、救われるわけです。 二、私たちもこの歌を歌いましょう!実は、この詩編が礼拝式の中で捧げ物に伴ってよく歌う歌となっています。私自身は子供の頃からこの歌を暗唱しています。 What shall I render to the Lord for all his benefits to me? How shall my soul by grace restored give worthy thanks, O Lord, to thee? (詩編116:12) この通り、私たちの捧げ物は神様にお金を払って何かをしていただくのではなく、一方的に私たちを救ってくださる主への感謝の応答です。 ハイデルベルク信仰問答書の問116 の答えでは、祈りは主への感謝の最も大切な表し方であると言っている通りです。神様は私たちの祈る姿を本当にお喜びになりますから。
本日お話する説教は祈りについてですが、中心的主張点は次の通りです。
「主は祈りに答えてくださるから、思い切って大胆に祈りましょう」ということです。
序:宣教師に不可欠なのは支援者!使徒パウロの時代以後、世世の宣教師は同じです。そこでパウロ達が 送り出したアンティオキア教会に帰って報告をしたように私たちも、定期的に北米に帰って、支援者に祈りの訴えをしながら、報告活動をしています。けれども今は障害があり、本部の意向によって一切の報告活動の旅が禁じられていますので、別の手段で日本宣教の状況を 文書やメール、インターネットを使っていますね。ついこの間、250以上のメールアドレス宛に祈祷頼りのフ
ァイルを送り、100通ぐらいの手紙を出しました。このようにして日本の皆様のこと、伝道の成功のことを祈っていただいています。
ではまず、祈りについて学ぶにあたり、祈りの定義を確認しよう。WSC 問98 にスマートにまとまっていますので、確認しましょう。
「問98:祈祷とは何ですか?
答:祈祷とは、神の御意志に一致することのために、キリストの御名によって、私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いを捧げることです。」
主はこのように捧げる祈りを喜び、聞いてくださいます。
1、聖書において祈りへの応えの実例が多くあます!幾つかの例を挙げますと
イ、旧約において:投獄から解放されること(ヨセフ物語)、不妊の女性に子供が授かること(例えば、ハンナのストーリー)、勝利が与えられること(モーセ、ヨシュア、ダビデ王の歴史など沢山あり)、罪が赦される(自分お国に帰還できた捕囚のユダヤ人の話)。もちろん、数え切れない例が他にあるのですね。
ロ、新約において:難病が癒される(悪霊追放とともに、てんかん病やライ病が癒される)、嵐が静まり(必死になって神様の助けを叫び求めた弟子たち)、死者が蘇り(例えば、ラザロの生き返り)、聖霊の力が注がれる(主の助けを皆で祈った初代教会に)。ここにも全体の中から今思いついた幾つかの例だけなのです。
ハ、いかがでしょうか。祈りに何かの効果があるだろうかと聞くと、絶対にあるとしか答えられ ません!大昔から今日に至るまで主の民が経験しています。
2、では、本日の聖書箇所、詩編116編の中身を確認しましょう。
イ、どなたが、いつ、どこで書いた歌でしょうか?モーセ?ダビデ?エレミヤ?他の多くの詩編 のような表題の言葉が今回ありませんが、エルサレムの礼拝者の中で救われたことの証を語り、感謝の捧げ物をすることを歌っていますから、ダビデ時代以降のことでしょう。けれども、ダビデ王なのか、アサ王なのか、ヨシャパテ王なのか、ヒゼキヤ王なのか、特定できません。これらは皆、主に祈り求めて、不思議な救いが与えられたことを経験した人たちです。あるいは、主の民の一般人にも十分にありうる経験です。
ロ、結局、この詩編は主の民誰にでも歌える歌です。民の「古代の賛美歌」と言える詩編集のそれぞれの歌はいつの時代にも主の民の歌となっていただけます。そして、これはよくある現象ですが、イエス様にも唱えることがありうる祈りです。つまり、来るべきキリストの歌です。死から解放された蘇りの主の感謝の歌です。
ハ、この歌の内容から得る基本的な知識をまとめると、次のように言えます。祈りに応える主が おられます。この方に頼るべきです。いつの時代を生きた主の民の声が揃ってこのように教えてくれます。主の救いは主に頼り、主を信じて呼び求める人に必ず与えられます。つまり、信じて、頼んで、救われるわけです。
二、私たちもこの歌を歌いましょう!実は、この詩編が礼拝式の中で捧げ物に伴ってよく歌う歌となっています。私自身は子供の頃からこの歌を暗唱しています。
What shall I render to the Lord for all his benefits to me?
How shall my soul by grace restored give worthy thanks, O Lord, to thee? (詩編116:12)
この通り、私たちの捧げ物は神様にお金を払って何かをしていただくのではなく、一方的に私たちを救ってくださる主への感謝の応答です。
ハイデルベルク信仰問答書の問116 の答えでは、祈りは主への感謝の最も大切な表し方であると言っている通りです。神様は私たちの祈る姿を本当にお喜びになりますから。
3、私たちの思い、期待を超えて、主がよくしてくださいました!(感謝の証)
イ、ご存知の方もいらっしゃいますが、私たちスパーリンク家の末の子、一人娘が大きな試練(病)に直面しています。それは去年の春に診断されました。肝臓にたくさんの腫瘍ができています。悪性ではありませんが、結構重い病気です。破裂すれば、流血して、命の危険があるほどです。様子を見てきましたが、いよいよ今年の6月に大きな手術を予定していました。そのため、6−8週間の回復の期間、看病と応援のために妻と二人で帰国することにしました。ウィルス感染予防のために日本の国境が閉鎖状態だったために、日本に戻ることができるかどうか分からな
いこともありましたが、その覚悟でミシガン州に出かけました。6月21日のことでした。
ロ、1年ちょっと前にこの病を知らされたら、私たちのことと、日本伝道のために 毎日熱心に祈ってくださる「祈りのパートナー」8人にこのことを打ち明けて、癒しを祈ってくださるようにお願いしました。信仰の友に祈りへの呼びかけをするのですが、このようは個人的なことを知らせていいのかと迷いました。日本の同労者にも、また、幾つかの奉仕教会の役員にも知らせて祈っていただけるようにお願いしました。皆様からたくさんの親切なメールや優しい語りかけをいただき、慰められました。何人かの友から、「これらの腫瘍が消えていって、手術する必要
がなくなるように祈っている」との返事もありました。そんな無理なことありうるのかと、感謝しながら、心の中で思っていた私です。
ハ、本当に恥ずかしい話ですが、手術の必要がなくなるとは思えませんでした。いかにのぞまし くても、そうすれば幸いな結果だと想像しても、神様がそこまで助けてくださるとは思っていませんでした。でも、不信仰を助けてくださる主の恩恵を体験する、大いなる癒しへと導いて、見事に祈りに答えてくださいました。米国に着いた翌日、外科医の MRI 検査の分析と手術前の相談に伺うと、なんと医者も驚き、当分手術の必要がなくなって、もう半年様子を見ることにする結論に至りました。なぜなら、腫瘍の予想外の縮小がかなりあったためでした。なんと不思議に、私自身の不信仰にもかかわらず、主が願い通りに働きかけてくださったのです。
116 編 1−2節をもう一度読みましょう。これこそ、そのまま、私の思いです!
「私は主を愛する。/主は嘆き祈る私の声を聞き私に耳を傾けてくださる。/私は生きるかぎ り呼び求めよう。」
4、でも、考えてみましょう。もしそうではなければ、違う結果であったならば、どうしたらよいのでしょうか。その時、あきらめず、御心を探りながら、祈りに励み続けることではないでしょうか。
イ、信じて、熱心に祈っても、叶えてくださらない祈りがあります。事故死が起こり、病気によって召され、虐待が続き、パンデミックが現れ、感染がただ増えていくだけです。祈りを重ねて主の介入を、癒しを、改善を願っても、神様に動いていただく様子が見られません。全ての祈りに、望むままに主の答えがないかもしれません。このようなことを私たちも体験しているかもしれません。その時、シニカルになって、「神などいない」と、信仰を捨てるでしょうか。
ロ、イエス様もおっしゃいましたが、この世にいる限り、悪との戦いも、罪の呪いの故に起こる災害も続きます。主の民が場合によって激しい迫害を受けることが起こります。戦争が相次いで起こり、犯罪が終わりを絶たず、自然災害も 人間が引き起こす悲惨なこともある。汚染で環境を破壊し、原子爆弾によって悪を極める行為もあります。悪が自ら それにふさわしい報いを必然的に招きます。
ハ、これはそうだと言っても、主の民は知っています:全てのことが主権者なる主のみ手にある、と。主がいよいよ ご自分の愛する民のために全てを益として働かせてくださいます。しばらくの苦しみがあっても、私たちのことを無視することはありません。ですから、諦めないで、なお天の門を叩き続けます。溢れる感謝を捧げる時が来る。山もいよいよ動き出し、海に移ってしまうのです。
結論:祈りましょう!一緒に祈りましょう!お互いのために祈リましょう!私達が捧げる祈りにお応えくださるお方がいらっしゃるから、やめるわけにはいきません。アーメン。