死に打ち勝つ人生
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- 説教
- 岩崎謙引退牧師
- 聖書 詩編 23章1節~6節
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
詩編 23章1節~6節
「死に打ち勝つ人生」 詩編23:1-6 岩崎謙引退教師
ホスピスの先駆者である柏木哲夫先生は、死に関し、三つのイメージを語っておられました。一つは、まだ先にあってこちらを手招きしている感じ。もう一つは、自分の後から追いかけてくる感じ。それらに対して、柏木先生が抱いているイメージは、死を背負っている感じ、です。いつも死と一緒です。どのようなイメージを抱くにせよ、大病をされた方や愛する方との死別を体験された方にとっては、死は身近な事柄です。
「死に打ち勝つ人生」とは、不老不死のことではありません。病気が治り、死ぬまでの時間が伸びるということでもありません。死と背中合わせの日々を送っていても、感謝と喜びの内に人生を全する、ということです。今週、御主人の逝去を伝える喪中ハガキが奥様から届きました。「長い闘病生活をいつも前向きに頑張ってきました。……これからは、夫の感謝を胸に日々を歩んでゆこうと思います」とありました。御主人は長い間、透析をしておられました。彼とは電話で時々話していました。その際、「生かされていると思うと、感謝です」といつも語っておられました。彼の感謝の思いが奥様の胸に刻まれていることを、ハガキの文面から知りました。説教題を言い換えると、「死の不安に打ち勝つ人生」となります。ですが御言葉により、もっと深い意味をお伝えできれば、と願っています。
お読みした詩編23編は、多くの方に愛されています。また私の愛唱聖句です。愛唱聖句になった経緯を紹介します。私の肩書きは、引退教師です。年齢で引退したのではなく、病気療養が必要となり、引退しました。完治しておらず、毎月大学病院に通っています。とは言え、2020年に承認された新薬が効き、日曜日はこのように奉仕することができています。正確な病名は多発性骨髄腫です。一番厳しい治療中は、無菌室に入り抗がん剤が目一杯使われ、白血球はゼロに近くなりました。その治療を受けるにあたって本を読む元気はないだろうと思い、家にあるCDをほとんどすべてウォークマンに取り込みました。CD200枚以上、入ったはずです。無菌室で、発熱と下痢と嘔吐の中で、この先どうなるのだろうという不安と向き合いつつ、一番よく聞いていたのが実は詩編23編のCDでした。
1節朗読 羊飼いは、羊の群れを導きます。ペットのように一匹だけの羊を導く羊飼いはいません。羊飼いと羊の群れの関係は、羊飼いがいる文化圏において、王と民の関係を表す比喩としてよく取り上げられます。そのような中で、この詩編は、素晴らしい羊飼いに導かれている一匹の羊の喜びを謳っています。「わたし」とは、詩編作者です。「主」とは、その名前を口にすることが許されていないほどに威厳に満ちた神の名称です。ところで、原文は「わたしの羊飼い」です。多くの邦訳聖書はそうなっています。説教ではそのように語ります。詩編作者は、偉大な主に向かって、「わたしの羊飼い」とパーソナルな呼びかけをしています。主なる神と詩編作者との親密さがこの詩編の大きな特色です。
4節朗読 「死の陰の谷を行くときも」とあります。死ぬ恐れがある、薄暗い谷を渡るのでしょうか。詩編作者は、死と向き合っています。「死の陰」は、日本語では二つの言葉ですが、原語では一つの言葉で、使用頻度は限られています。この言葉が多く登場するのは、人生の辛苦を描いたヨブ記です。その用例を確認すると、ほぼすべて、暗黒、闇、恐怖という言葉が近くにあります。詩編作者は、希望の光が届かない暗黒の中で、先を見通せない恐怖を抱いています。それにもかかわらず、詩編作者はこの中で、「わたしは災いを恐れない」と語ります。私たちに恐れを抱かせるものが、「災い」です。「災いを恐れない」とは、言葉の矛盾です。普通なら決して口にできない言葉です。
「わたしは災いを恐れない」の後に、「あなたがわたしと共にいてくださる」とあります。人生で一番辛い中にあって、作者は、「主はわたしの羊飼い」と呼んでいた「主」を、「あなた」と呼びかけています。さらに原文では、「災いを恐れないのは、なぜならば、あなた御自身がわたしと共にいてくださるからです」、と記されています。恐れない理由が「なぜならば」と語り出され、あなたには強調形が用いられています。死の陰の谷を行くときがあっても、主なる神を「あなた」と呼ぶことができるほどに身近に覚えることができたので、作者は、「わたしは災いを恐れません」と語ることができました。
また、「あなた」と「私」の関係を保ったまま、羊飼いと羊との比喩が、「あなたの鞭 あなたの杖 それが私を力づける」と続きます。羊飼いは、羊を狙うライオンや狼が近づいてきたら、鞭で追い払います。羊が群れから離れようとすると、杖で羊に触れ、群れに戻します。羊は、羊飼いの手にある鞭と杖を見ると、外敵からも、自分の愚かさからも、羊飼いは守ってくれる、と安心します。
5節朗読 全く別な比喩が語り出されます。ここにおいても、「あなた」とは神のことです。「わたしを苦しめる者を前にしても」とあります。荒れ野で敵に追われていた者が、或る主人のテントに逃げ込みました。その主人は、逃げ込んできた者を受け入れます。その主人はとてつもなく強いお方です。敵は逃げ込んだ者を差し出せと迫ることができません。ご主人のテントの中にいる限り、敵は何一つ危害を加えることができません。5節後半の「わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」とは、お酒がなみなみ注がれ、心から満たされる楽しい食事です。テントの外には、敵が待ち構えています。テントの中では、ご主人は祝宴を開き、逃げてきた人を賓客としてもてなしています。「私は災いを恐れない」と語っていた作者は、敵を前にして、喜びの食卓にあずかっています。死の陰を行く中にあって守ってくださった羊飼いのイメージが、敵から守るテントの主人のイメージで膨らまされています。
詩編23編には、特別な思い出があります。無菌室に入る前、土曜日に外泊許可をもらい、主日礼拝に出席していました。或る主日の午後、病院に戻ろうしていましたら、教会員の御婦人から電話がありました。ポスピス入院を考えている未信者の夫が洗礼を受けたいと言っているとのことでした。急いで駆けつけ、御主人と話しました。教会で結婚式を挙げたので、死ぬ前に奥様と同じ信仰を持ちたいとのことでした。その後、長老が受洗準備の指導を行いました。主イエスを信じておられることを確認し、自宅で病床洗礼式を行いました。その時、23編を一緒に読みました。「死の陰の谷を行くときも」は、その方にとっても私にとっても、まさにリアルな現実でした。さらに、「私を苦しめる者を前にしても」という言葉が、急に立ち上がってきました。家の中で行う洗礼式を、家の外から死が覗いているように感じました。しかし、死が間近に迫っているという現実は、洗礼式の喜びを妨げることはできませんでした。御主人は洗礼式を挙げた夜、未信者の親族に、今日洗礼を受け教会員となった、と喜びのメールを打たれました。その3日後に天に召されました。
また、今年の夏に、以前私の教会に属していたご婦人から、未信者の夫が癌の末期で自宅療養しているとの電話がありました。彼を学生時代から知っています。大学の工学部教授になり、晩年は体の御不自由な方に、その人に合った介護用の医療器具を製作し、無償で提供しておられました。彼を紹介するテレビ番組を見ました。奥様によれば、彼は本当にいい人で、人に優しく、自分よりもクリスチャンらしい、とのことです。納得して聞いていました。成人した子どもは、お母さんがどんなに祈っても、お父さんみたいな強い人はクリスチャンにならないよ、と語っているとのことです。奥様に詩編23編の解説をメールで送り、祈っていました。すると、10月9日に彼が記したメールが届きました。
教会の皆様 先週、洗礼を受け、皆様の兄弟と言って頂ける祝福を頂きました。前途に不安を抱えたままの在宅ケアの開始でした。呼吸も徐々に苦しくなり何も希望が持てませんでしたが、不思議な事に、中略、神の存在、無償の愛、が気になっていました。驚いたのは、イェス様の復活、自分が罪深い事、神様の無償の愛、が全て心に響き渡る事です。大切なのは私とイェス様の関係です。その事がいっぺんに見えるようになり、洗礼、翌日には聖餐式に与りました。未だ私の理解や知識は不足していますが神様に導かれて歩こうと思っています。余命1ヶ月と言われていますが何も考えていません。今の幸福な時間を精一杯生きます。皆様からのお祈り、届いています。幸せです。本当にありがとうございました。妻も家族も喜んでいます。ありがとうございます!
そして、翌日の10日に天に召されたという連絡が奥様からありました。多くの人から「ありがとう」と感謝された人生を歩まれた御主人が、人生の最期に主イエスに依り頼み、神に「ありがとう」と感謝して人生を締め括られました。お別れは寂しいですが、美しい人生だったなぁと思いました。
毎週いろいろな教会で説教奉仕をしていますと、思いがけない出会いが与えられます。今年5月に或る教会で奉仕しました。ヘブライ人への手紙から「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)の御言葉を説教しました。礼拝後に出席していたご婦人と話すと、すい臓癌のステージが進んでいるとこっそり教えてくださり、その後、気にかけていました。その教会の長老から、10月18日に亡くなり、11月2日に葬式が行われる、と連絡がありました。奥様に付き添って来ていた未信者の御主人ともお会いしており、慰めのメールを打ちました。すると思いがけず、11月17日に御主人から返事がありました。亡くなる2日前のことが記されていました。
ヘブライ人への手紙11章をベッドの中の彼女に読んで聞かせました。黙って聞いていました。もうその時にはあまり声を出せる状態ではなくなっていました。しかし、「事実を確認する」ことができた彼女は、何に抗うこともなく、その時を穏やかな顔で静かに受け入れることができたのだと思います。彼女にとって大変幸せな最後でした。
信仰者にとっての励ましは、神はどんな中にあっても導いてくださるので、死んで終わりでなく、天国の希望に生きることができる、というメッセージです。信仰的な事実は、目で確認できず、科学的に証明することはできません。しかし、個人的な思い込みではありません。何千年もの間、多くの信仰者が共々に握りしめてきた希望です。奥様は、その希望が事実であることを御言葉によって確認し、人生の最期を過ごされました。残された御主人は、同じ確信を求め、クリスマスの洗礼式に向けて準備を進めておられます。
実は新約聖書は、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(23:4)の御言葉を用いて、主イエスを指し示しています。
「あなたがわたしと共にいてくださる」は、主イエスの誕生の際に、語られた御言葉と響き合っています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。……『その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタ1:21-23)。罪からの救いと神が共におられることが、合わせて語られています。主イエスが罪人の身代わりとして十字架で死なれたことによって、罪からの救いが到来しました。どれほど罪深い者であったとしても、主イエスを信じている者の罪は、神の御前に赦されています。ですから神は、主イエスによって罪から救われた者と、いつも共にいてくださいます。
また、イエスが救い主として登場された最初の場面が、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタ4:16)と、紹介されています。主イエスがお出でくださり、死の陰の地に住む者に、光が射し込んできました。この光とは、十字架で死なれ、三日目によみがえられた、復活の主イエスが放つ光です。これまで暗闇に閉ざされた死の陰の谷の中にも、主イエスの到来によって、光はもう既に射し込んでいます。
誰にとっても、人生の最期は死です。しかし、死に打ち負かされて、人生が終わるのではありません。主イエスを信じる者は、死に打ち勝って進む人生を歩んでいます。私たちは、試練が多く、敵が周りにおり、死を背負って、人生を歩んでいます。だからこそ、「あなた」と呼びかけることができるほどの親密な関係を主イエスとの間に築いてください。「死に打ち勝つ人生」とは、死と向き合っても、死の不安に怯えることなく、主イエスによって罪赦されているので、永遠に神と共に歩むことができるという希望に生きる人生です。この希望が確かであるか否かを、教会に来て御言葉を学び、どうか確認してください。