2024年11月17日「信じて生きるとは」

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その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 4章35節~41

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約> マルコ4:1―34 ⑲「信じて生きるとは」

イエス様は、ガリラヤ湖のほとりで、大勢の群衆に「神の国の福音」を、丸一日お語りになりました。
ですからお疲れになったのでしょう。夕方になると、弟子たちだけを連れて、群衆から離れようとなさいました。弟子たちの中に、ガリラヤ湖の漁師がいましたから、船をこぐのはお手の物。さらに、ガリラヤ湖のことも熟知しています。
しかし、この後大変なことが起こりました。37節に「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」とあります。
ガリラヤ湖は、周囲を山に囲まれたすり鉢状の地形の底にあるそうです。ですから、時折山から激しい突風が吹きおろし、湖が大荒れになることがあるそうです。4人の漁師たちは、そういうときの恐ろしさをよく知っていました。
彼らはガリラヤ湖の気象について、知識がありましたから、この時、命の危険を誰よりも強く感じたことでしょう。知識があることで、他の人より恐怖を強く感じたはずです。
しかし、この時、主イエスは疲れて眠っておられました。
舟が波をかぶって、水が中に入ってきたとき慌てた弟子たちは、イエス様を起こそうとして言いました。
38節「弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」
弟子たちの悲痛な叫びをお聞きになった主イエスは
39節「起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」 

それから主イエスは彼らに言われたのです。40節「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちはこれまで、主イエスに従って、一緒に行動して、イエスの様々な力を見てきました。
病気の癒し、悪霊を追い出す場面、律法学者や祭司たちと対等に論争し、彼らを論破し、権威をもって学者たちを教える姿も見てきました。それほどの力と権威を持った主イエスが共におられるのに、どうして怖がるのか?あなたたちは何を怖れるのか?
あなたたちは、私がどれほどの力と権威を持っているか、まだ理解できないのですか?
主イエスはそういう意味を込めて、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とおっしゃったのです。
しかし、弟子たちの側からすれば、イエス様が自然を支配し従わせるほどの力を持っておられることまでは知りませんでした。というより、この時初めて知ったのです。それは、彼らの今までの経験や知識では、あるいは、人間の常識では、考えも及ばないことでした。
彼らは、ここで初めて、風や波という自然までも支配し、従わせる主イエスの力を見たのです。
実際主イエスは、父なる神と共に天地を創造された神ですから、それは当然なのです。しかし、彼らの信仰理解はまだそこまで至っていません。
主イエスは弟子たちに向かっておっしゃいました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」といい、少しずつ弟子たちの信仰の成長を促していかれたのです。

41節 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
大風や大波、そしてそこで溺れて死にそうになった時の怖れ以上に、自然までも支配し従わせる主イエスの権威、力に対して、弟子たちは恐れを抱いたのです。
しかし、そのお方が自分たちと同じ船に乗っておられるのですから、これほど安心であり、心強いことはないわけです。

今日の箇所から、私たちは二つのことを学びたいと思います。
(1)イエスの言葉には力がある
主イエスのたった一言で、ガリラヤ湖の嵐はやみ波が静まったのです。主イエスの言葉には力がある、ということです。もちろん、普通の人間にできることではありません。これは、主イエスが神の子だから、神としての権威と力を持っておられるから、できるのです。
マルコ10章27節に「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」とある通りです。

今回のことは、弟子たちにとって、またとりわけガリラヤ湖のことを熟知している4人の漁師にとって、イエス様の実力を知る大きな出来事だったはずです。
特に、4人はガリラヤ湖のことをよ~く知っていて、こんな風に湖が荒れたらどうなるかわかっていました。
もしかしたら、それで命を落とした人のことも知っていたかもしれません。4人はこのとき、死を覚悟したかもしれません。
でも、それでも、彼らは寝ているイエス様を起こして、イエス様に頼りました。もしかしたら、イエス様が何とかしてくれるのではないか? 小さな期待だったかもしれませんが、それでもイエス様に頼ったのです。
主イエスは、神は、私たちの常識を超えて、また私たちの経験や知識を超えて、それ以上のことをなさるおかたです。そして、彼らは常識を超えた結果、助けを得たのです。
私たちはどうでしょうか。私たちも、困ったことが起きたり、辛い状況になった時、それを乗り越えるために、自分の経験や知識や、人の力を総動員して対処しようとします。しかし、それでもどうにもならないことがあります。
私たちはそうなって初めて、神に祈り助けを求めます。そういうときの祈りは、本当に真剣ですよね。
ですが、神は、そんなふうに、私たちが真剣に神様と向かい合うことを待っておられたのかもしれません。
そんな時にぜひ、今日の話を思い出してください。
私たちにも、神からのふさわしい支えや助け、あるいは何かしらのアクションがあること期待しつつ、待つことで、危機的な状況が必ず、神の愛と恵みを知る機会になるはずです。

(2)信仰の成長は徐々に与えられる
もう一つのことは、主イエスを信じる信仰は、徐々に深められ、確かなものとされるということです。
弟子たちの信仰は、主イエスと共にいる歩みの中で、少しずつ主イエスから教えを受け、訓練されて成長しました。主イエスの教えには、権威と力があること。主イエスは、人を癒し悪霊を追放する力を持っておられることは既に学習していましたが、ここでは自然をも支配しておられるということを学びました。
私たちも同じように、いろんな経験を通して神への信頼、主イエスへの信仰が、少しずつ深められ、確かなものとされる、ということを覚えたいと思います。

主イエスを信じて生きるとは、私の人生とともにイエス様がいてくださること、神の恵みがあることを経験しながら生きていくことです。

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