2024年10月20日「赦される罪 赦されない罪」

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赦される罪 赦されない罪

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
マルコによる福音書 3章20節~30節

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聖句のアイコン聖書の言葉

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 3章20節~30節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>マルコ3:20-30 ⑯「 赦される罪 赦されない罪 」

今日の説教題は「赦される罪、赦されない罪」です。
イエス様の十字架の両脇で十字架につけられた強盗の一人が、そこでイエス様を信じ、救いを得た、つまり罪が赦された、という話がルカ23:41-43にあります。このように、たとえ死刑になるほどの犯罪を犯したとしても、その罪が赦されて、永遠の命の恵みを受けることができる、というのが聖書の教えです。
しかし、今朝はこの例とは反対に、「赦されない罪」があるという話です。

3:20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 
イエス様が家に帰られた、とありますが、多分カファルナウムのシモンとアンデレの家と思われます。イエス様の評判が広まり、この日もたくさんの人々がイエス様の周りに押し寄せて、食事をする時間がないほど忙しく人々に対応していました。しかし、この日は特別なことがありました。そこに、イエス様の身内がやってきたのです。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。3章31節以下を見ると、「身内の人たち」とは、母マリアとイエス様の弟と妹たちだということがわかります。イエス様の家族は、食事をする時間もないほどに忙しく働き続けるイエス様のことを心配して、そんな働き方をやめさせようと、やって来たのかもしれません。あるいは「あの男は気が変になっている」という人々の言葉を気にして、イエス様を家に連れ帰ろうとやって来たのかもしれません。
イエス様の身内である、母マリアも弟や妹たちも、この時点ではイエス様が誰なのか、そして今、何をしておられるのかということを、正しく理解していませんでした。

続く22節 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
イエス様の行動がエルサレムにまで伝わり、エルサレムの宗教指導者たちが正式に派遣されて調査に来たということのようです。律法学者たちは、イエス様が、多くの病人を癒し、悪霊を追い出しているという現実を前にして、それをあからさまに否定することはできませんでした。ですが、なんとかしてそれが神の働き、神の業ではないと言いたかったのです。それで、イエス様が悪霊の頭であるベルゼブルに取りつかれていてその力で悪霊を追い出している。つまり悪の力でこの業を行っているとこじつけをしました。

イエス様は、律法学者たちの言葉に対して「国であろうと、家であろうと、サタンであろうと、内輪で争えば立ちいかなくなり、滅びに至る」という主旨の反論なさいました。23-26節です。さらに27節。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」
27節は少しわかりにくいのですが、ここで「強い人」とは悪霊の頭こと。「家財道具」は悪霊によって罪と死の奴隷となって閉じ込められている人々。悪霊にとりつかれた人々のことです。
悪霊に取りつかれた人々を救い出すには、強い人、つまり悪霊の頭を縛り上げなければなりません。イエス様はここで、「わたしは悪霊よりもはるかに強い力を持っているから、悪霊を追い出すことができるのだ」と言っておられるのです。実際、イエス様は、霊の世界の戦いに直接関与する霊的な力を持っておられる、神の子です。イエス様が地上に来られたとき、悪霊がイエス様に最初に気が付き、恐れたのも当然です。
イエス様は、罪と死によるサタンの支配から人々を開放するため、地上に神の支配をもたらすために来られたのです。イエス様によって、地上に神の国、神の支配がすでに始まっていることを、この個所からも知ることができます。

28節は律法学者たちの言葉への反論です。28節後半「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」イエス様は地上で罪をお赦しになる権威を持っておられます。
どんな罪でも、イエス様には赦す権威、力があります。それが神の子の力であり、イエス様の十字架の御業です。しかし、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」には、重大な例外があります。
それが29節 「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
聖霊を冒涜し、拒むことは、イエス様の言葉と行いを通して現わされる神の救いの力と恵みを拒むことです。それを意図的・意識的に拒絶するなら、その人の罪は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うことになります。ここでの律法学者たちのように、イエス様の働きを悪霊の働きとして、意図的に拒み続けるなら、イエス様の罪を赦す権威、力はその人の上に及ぶことはありません。

もう一つの視点から、「聖霊を拒むこと」について考えたいと思います。
聖霊の中心的な働きは何でしょうか? キリスト教の神は、三位一体の神。父、子、聖霊なる神であり、救いに関してはそれぞれにお働きがあります。父なる神は救いの御計画を立て、御子キリストは贖いの業をなし、聖霊はキリストの贖いを私たちに当てはめてくださる。簡単にまとめると、父、子、聖霊なる神がそれぞれに働きを分業し、お一人の神として働かれて、私たちを救いへと導き入れてくださいます。
聖霊の働きによって、具体的に私たちはイエス様を信じる信仰へと導かれ、イエス様と結び合わされ、罪赦されて永遠の命を受け継ぐ者とされるのです。ですから、故意に、意識的に、聖霊の働きを拒む、あるいは否定するなら、その人は罪の赦しと永遠の命を手にすることができないというのは当然です。
聖霊を冒涜し、拒むということは、神が備えてくださっている救いを拒むことと同じことです。

話をまとめます。
今朝は、「赦されない罪」でした。私たちに救いを届ける「聖霊の働き」を拒むとき、「罪は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」ことになります。つまり救いに入ることができません。
しかし、今朝覚えたいのはこっちではなく
ローマ6:23 「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」というみ言葉です。「神の賜物」の第一が、聖霊です。
人が福音に招かれ、み言葉を通して心が変えられていき、イエス・キリストを信じる信仰へと導かれていく、特にその過程で私たちに働きかけてくださるのが聖霊です。
さらに、私たちの信仰の歩みにも、具体的に聖霊の働きかけ、助け、導きがあります。
ですが、聖霊は目で見ることができないし、その具体的な働きを知ることはなかなか難しいのです。
ですから、聖霊は私たちの信仰の歩みを導いてくださると信じることが大切です。
洗礼の誓約の四番目は
「あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを、決心し約束しますか」です。
私たちの歩みに、偶然や、たまたま、はありません。すべてが神の御手のなかで、神の御計画の中で、起こっています。そういう中で、私たちは神の声を、聖霊の働きを、聞き取りたいと思うのです。
聖霊の働きに期待し、信頼して、歩みを進めてまいりましょう。

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