2024年10月06日「あなたは神の子だ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 3章7節~12節

原稿のアイコンメッセージ

今日はマルコ福音書3章7節からです。
3:7「 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。」
と記されています。
イエス様の評判が、特に癒しの力があるお方としての評判が、ガリラヤ地方一帯に広まり、「おびただしい群衆が従った。」のです。ここで「従った」とあります。「従った」というと、何かイエス様の教えを信じた人々が、イエス様に聴き従った」という感じを受けます。もちろん、中にはイエス様の教えを信じてイエス様に従って来た人もいたかもしれません。しかし「多くの群衆」は、イエス様の癒しの評判、癒しの力を目当てに着いて来たと考える方が当たっていると思います。

さらに、7節後半から8節を見ると、そういう人がガリラヤ周辺からやってきただけではないことがわかります。聖書をお持ちの方は、巻末の地図6「新約時代のパレスチナ」を開いて見てください。
イエス様が活動しておられたガリラヤからエルサレムまでだって、直線距離でも100キロ以上あります。
それほど広範囲にわたって、イエス様の評判、メインは「病気を治してくださる」「悪霊を追い出してくださる」「目が見えるようにしてくださる」「耳が聞こえるようにしてくださる」などなど、評判が広がって、
イエス様の特別な力を目当てに、人々がやってきたのです。
また、イエス様は、そういう人々に真摯に対応なさいました。
多くの人がいっぺんにイエス様の周りに押し寄せ、イエス様に触れようとしたのですから、大変な状況だったと思います。下手をしたら、将棋倒しになって、多くの人がけがをしてしまう。
群衆の真ん中におられるイエス様と弟子たちは、押しつぶされたっておかしくない、そういう状況です。ですが、そんな状況になるまで、イエス様は、はるばる遠くから、病人を連れてやってきた人々に対処し、癒されたのです。
しかし、相当危険な状況になったのでしょう。それでイエス様は、「弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。」とあります。

このあと、11-12節には興味深い話が書かれています。
3:11汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
福音書には「汚れた霊」や「悪霊」がよく登場します。
マルコの6章6節以下を見ますと、主イエスは十二弟子に「汚れた霊に対する権能」をお授けになったこと。彼らはそれによって
6:13多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。と記されています。
悪霊や汚れた霊は、人に様々な病気や悩みをもたらすことが分ります。このほかにも、イエスが追い出した汚れた霊が豚に乗り移った出来事(マコ5:13)などが記されています。悪霊は人や動物に害を与える力をもち、神に逆らう働きをする存在です。
人々が神の恵みに与ることを妨げる存在と言ってもいいでしょう。
しかし、興味深いことは、イエス様の周りに押し寄せる人々は、誰一人イエス様を「神の子だ」と言わないのに、汚れた霊たちは、イエス様を見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだのです。

実は、マルコ福音書では、イエス様を「神の子」と記している個所が4回あります。
最初は1章1節の表題の所、
マル1:1 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」です。
そして次が今日の所、3:11の汚れた霊が思わず発した言葉。
さらに5章。ここも汚れた霊に取りつかれ、墓場に住んでいた人から、イエス様が汚れた霊を追い出された、という出来事です。ここで汚れた霊が叫んだ言葉、イエス様への呼びかけが「いと高き神の子イエス」でした。
人々は、イエス様の教えや数々の愛の業に接しても、病気を癒していただいても、一向にイエス様を「神の子」だと理解しませんでしたが、「汚れた霊」はそれがわかったんですね。これは、実に皮肉なことです。

しかし、マルコ福音書15節には、人間の言葉として「この人は神の子だった」という告白が記されています。それは、イエスが十字架におかかりになった後のこと。15章37-39節をお読みください。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
そして、そこまで立ち会った百人隊長が発した言葉が
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
イエス様が十字架にかかり、死なれた後、初めて一人の人がイエス様のことを「この人は神の子だった」と言った。これはもう、信仰告白です。

マタイ福音書はこの箇所をもう少し詳しく描いています。マタイ27:51-54です。こちらもお読みください。
イエスの十字架まで、多くの人々は主イエスを「神の子」と認めなかった、というよりは、認めることができなかったということがわかります。
もっと言えば、イエス様が十字架におかかりになり、3日目に復活し、人々の前に現れ、そして天にお帰りになる。そのイエス様の十字架と復活、さらには昇天までの出来事を通して、イエス様の弟子たちを含め、多くの人々が、本当の意味で、「イエスは神の子だった」ことを理解したのです。

ところが、汚れた霊や悪霊たちは、初めからそんなことわかっていたのです。
しかし、汚れた霊たちのように、神を恐れ、イエス様を神の子だと認識するだけでは意味がありません。

イエス様は神の御子であり、神の御子が、私の罪を赦すために、地上を歩まれ、十字架におかかりになったこと。
神の御子の受肉と死と復活は、私が神との関係を回復し、神の愛の中で平和に生きるため、そして永遠までの幸いを与えるためだということ。
このことを、他人事としてではなく、自分のこととして理解し信じて初めて意味を持つのです。
まっすぐに、心を開いて、自分事として神を見上げ、神の恵みのメッセージ、福音を受け取ることが大切です。
今、私たちが心を開いて、永遠までの幸いを与える福音を受け取ることができるために、私たちの努力だけでなく、神の側の働き、聖霊の助けがあることは感謝なことです。

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