柔らかな心で
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 3章1節~6節
イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 3章1節~6節
2024年9月28日説教要約 マルコ3:1-6 ⑬柔らかな心で
直前の2:23-28は、イエス様の弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで食べたことをファリサイ派の人々が「安息日律法に違反している」ととがめた話です。
それに対して、イエス様はこう言います。「人の子は安息日の主でもある。」(2:28)
「人の子」とは、イエス様ご自身のこと。「主・イエスこそが安息日の中心」だ、と言われたのです。
イエス様は、十字架と復活を通して、罪ある人間がまことの安息、神の恵み、神の国に入る道を備えてくださいました。もちろんこの時点では、まだ先の出来事です。しかし、その先取りとしての発言。
それが「人の子は安息日の主でもある。」です。
律法学者やファリサイ派の人々が教える律法とは、旧約聖書からの表面的、形式的な律法理解で、元来の規定に様々な細則を加えていました。特に安息日に関しての細かな規定は、神の意図に反するものもあり、かえって人を苦しめ、縛っているとイエス様は指摘します。
一方でイエス様は、律法の精神は「神を愛することと、隣人を愛すること」だと教えます。
安息日厳守について考えるなら、私たちも、社会生活の中で、家族のため、隣人のために主の日の礼拝を守れないこともあります。もちろん、気安くこの世と妥協してはなりません。
「礼拝を献げること」はキリスト者の恵みの中心であり、義務です。一人一人がそれぞれの歩みの中で、主の日をどのように特別にとりわけ、聖別し、どのように守ることが、神の恵みの中で生きることなのかを考え、選び取って欲しいと思います。
ここまでが、復習です。
今日の箇所、3章1節から6節に入ります。
この頃になると、安息日、当時の規定には従わずに自由に振舞われるイエス様の話が広まっていたのでしょう。特に律法学者やファリサイ派など、ユダヤ教の指導者たちはそれを苦々しく思っていました。
イエス様がいつものように、ユダヤ教の会堂にお入りになりました。もちろん神礼拝のためです。
ところが、イエス様が会堂にお入りになると、会堂の中がただならぬ雰囲気になりました。
人々は、会堂の中に片手の萎えた人がいることを知っていたからです。
3:2「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」
ここでは簡単に「片手が萎えた人」と書かれていますが、彼の状態はいったいどんなだったのでしょうか?
ギリシャ語の使い方から探っていくと、ここで「萎える」と訳されている言葉は、水や血液が止まる、というような意味で使われているのではないかと思われます。
つまりこの会堂にいる「片手の萎えた人」は、単に手が動かないというだけではなくて、もう少し深刻な状況だったのではないかということです。片手のどこまでかはわかりませんけれど、とにかく血液が行かない状態。血液が行かなければやがてそこは腐ってしまう。或は既に腐り始めていたかもしれません。そうであれば手が動かない以上に、深刻な状態です。そういう人が会堂にいて、その人も神を礼拝しようとしていたのです。
イエス様は会堂にお入りになると、すぐに、その人にお気づきになりました。
しかし、そこにいた人々はといえば、神礼拝以上に、片手の萎えた人をイエス様がどう扱われるかということへの関心、ひいてはイエス様に対する悪意に心が動いていたのです。
イエス様は、その状況に気付いて、人々に挑戦するかのような行動をとられました。
手の萎えた人をわざわざ、会堂の真ん中に立たせて、言われたのです。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(3:4)
その言葉を聞いた人の中には、自分の愛のない態度を悔いた人がいたかもしれません。イエス様を試みようとしたことを後悔した人もいたかもしれません。しかし、それを口にする人はだれ一人いませんでした。
イエス様は、民衆に対してはそれ以上お語りになりませんでした。そして、5節。「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。」 ここにイエス様の心の描写があります。
まず「怒って人々を見回した」。イエス様が怒りをあらわにされる、怒りや憤りの感情を示される場面は、福音書のなかでもそう多くありません。例えば、宮清めの場面。あるいは、イエス様のところへ子どもを連れてこようとした人々を弟子たちが叱ったとき、イエス様は憤りました。
神礼拝、あるいは神に近付こうとする人を阻止しようとする人に対して、イエス様はお怒りになるのです。
神礼拝の場は、神をあがめ、神に近付こうとする場、恵みの場です。
そこで、神に対して、隣人に対して、心を閉ざしているなら、果たして礼拝が成立するでしょうか?
神に喜ばれる礼拝をささげることができるでしょうか。
これは、大変に重要なことです。
神礼拝に臨む時、自分の心が神に向かって、あるいは兄弟姉妹に向かって、開かれているかどうか、ということをよく吟味する必要があります。
さらにイエス様は「かたくなな心」を悲しまれました。「かたくなな心」とは、どんな心でしょうか。
ここでは、隣人への配慮をせず、自分たちの慣習、安息日規定に固執している心。
神への愛と隣人への愛よりも、宗教指導者たちの教え、慣習を優先する心。
そして、まことの救い主であるイエス様に、まことの神に、目を向けようとしない心。
「かたくなな心」とは、主イエスに対して、まことの神に向かって、心を閉ざしている状態。
礼拝の場にいながら、神の恵みと神の救いを受け取ろうとしない心。
そう言いかえることができると思います。
果たして、私たちの心は、このユダヤ教会堂にいる人々のように、かたくなになってはいないでしょうか?
とりわけ、礼拝の場で、心がまっすぐ神に向かって、開かれているでしょうか?
かたくなな心の行きつく先は、6節。「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」。
つまり、メシア、救い主の抹殺です。そこに、救いはありません。
ところで、今日の説教題は「柔らかな心で」です。「柔らかな心」とは、「かたくなな心」の対局にあり、まっすぐ神に、イエス様に向かって、開かれた心のこと。
日々の生活の中で、私たちはいろんなことを経験します。しかしどのような状況下でも、まことの神、私を愛してくださる神から目を離してはなりません。心を開いてまっすぐイエス様に向かい、感謝と赦しを祈る心。これこそが「柔らかな心」です。柔らかな心で神を見上げるなら、私たちは神の愛、神の恵みに気付くことができます。
参照:ヨハネ福音書4:23-24、ローマの信徒への手紙12:1