平和と正義と愛の業-平和宣言を学ぶ③
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 詩編 85章9節~14節
85:9 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
85:10 主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
85:11 慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし
85:12 まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。
85:13 主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。
85:14 正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
詩編 85章9節~14節
<説教要約>
今朝は「平和宣言の3.平和と正義と愛の業」という所を見ていきます。
まず、最初に記されている聖書の言葉、詩編85編の9節、11-12節を考える上で、詩編85編全体を見ます。
詩編85編は、バビロン捕囚からユダの地に帰って間もない頃の様子を歌った詩編です。
バビロン捕囚は、紀元前6世紀に新バビロニア帝国によってイスラエル民族が帝国に連れ去られ、約70年間にわたってバビロンでの生活を強いられた歴史的な出来事です。
しかし聖書は、ユダの民の罪と不信仰のゆえに、神が外敵を用いて起こした事として記されています。
神は、異郷の地で苦しみ、神に目を向けて赦しと憐れみを求めるユダの民に目を向け、彼らの罪を赦し、過ちを覆い隠し、怒りを鎮めて、彼らをユダの地へ連れ帰ってくださいました。
それが、2節から4節に記されています。人々は、喜び勇んでユダの地に帰ってきました。
しかし彼らを待ち受けていたのは、過酷な状況でした。荒れ果てた町、破壊された神殿、そして異国の民がその地に住んでいて、自分たちの住む家もない。そういう中で人々は、もう一度神に目を向け、神の救い、神の憐れみをもとめます。その様子が5節から8節です。
民は神に目を向け、神の言葉を求めます。9節が、「平和宣言の3」の最初に記されている言葉です。
「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。」は、「聞かせてください!」です。この言葉が重要です。
主の民はどんな状況においても神に目を向けて、神の言葉を求めます。救いは神からくるからです。
9節には、神からの応答が続いています。
「主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」
神は、御自身の民、神の恵みの支配の中で生きる人々に、平和を宣言されます。神に背を向け、愚かなふるまいに戻ることのない者たちに、平和をお与えになります。
神が宣言される平和の内容が10節以下です。
この平和は、やがてイエス・キリストの誕生によって成就される、神の救いの約束までが視野に入れられています。
10節の 「主を畏れる人」とは、まことの神を私の救い主と信じて生きる人のこと。神を見上げ、神を信じ、神を礼拝して生きる人々のもとに、神の栄光はとどまります。
では、神の栄光とは具体的に何でしょうか。それが11-12節。ここも、宣言に記された言葉です。
85:11 慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし
85:12 まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。
11節にある「慈しみ」「まこと」「正義」「平和」という4つの言葉。これらは究極的には神の中にだけあるもので、罪ある人間の中にはありません。神が、神の栄光として地上にもたらされるものです。
「慈しみ」「まこと」「正義」「平和」という4つが分離せず、一つになるというのです。人間的には考えられないことです。
人間的な正義と平和は対立することがあります。為政者たちは、自国の正義、自分の正義のために戦争をします。「慈しみとまこと」も相反することがあります。誰かを慈しむ、憐れむところに真実があるとは限りません。災害被災者のための募金がかすめ取られたり、被災地支援の働きが政治や宗教に利用されることだってあります。悲しいかな、それがこの世の現実です。
けれど神から来る栄光としての「慈しみ」「まこと」「正義」「平和」は対立せず、一つになる。
これは、何を言っているのでしょうか? ヒントは12節です。
85:12 まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。
天と地が互いに接近しています。その接点がイエス・キリストであり、クリスマスの出来事。神の約束の成就です。「正義は天から注がれます」まことの救い、まことの正義は天から、イエス・キリストによって成就するのです。
ここから宣言の本文を読みながら見ていきましょう。
『神の平和と正義と慈しみは、切り離すことができません。イスラエルを苦難と抑圧から解放された神の律法は、ご自分の民が正義と慈しみに生きることを求めます。旧約預言者たちが、正義と慈しみの欠如した社会を平和なき社会として厳しく批判したように、平和の福音に生きる教会もまた人間社会が生み出す不正義に無関心ではいられません。「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせ」るのが、主の御心だからです(アモ 5:24)。 』
平和宣言の前の節「2.戦争と平和と国家」では「神の平和とこの世の平和を同一視することはできません」という言葉で始まっています。しかし、ここでは、「神の平和と正義と慈しみは、切り離すことができません」という言葉で始まります。
まだイエス・キリストが与えられていない旧約時代、すでに神は、ご自分の民が正義と慈しみに生きることを求めています。そうであれば、イエス・キリストによる救いが実現し、キリストの愛を知っている新約の世を生きる私たちが、社会の不正や不義に無関心でいてはならないのは当然でしょう。
次の段落では、イエス・キリストの愛の業に具体的に触れています。
『正義の神は、何よりそのような社会の犠牲になっている人々を憐れむ愛の神でもあります。人間の罪の悲惨を担われたイエス・キリストにある愛の業(ディアコニア)こそ、この世における神の平和の具体的な現れです。』
イエス様の福音宣教は、教えと癒し、愛の業によるものでした。イエス様は悪霊や病に苦しむもの立ちに、癒しを与え、神の憐みをお示しになったのです。虐げられていた罪人に、眼を注ぎ、愛を注がれました。
それが、「人間の罪の悲惨を担われたイエス・キリストにある愛の業(ディアコニア)」という宣言の言葉に集約されており、「神の平和の具体的な現れ」だといいます。
しかし、イエス・キリストが実現された平和は、力の支配ではありません。
『真の平和は力による支配ではなく、正義と公正と隣人愛によってこそつくり出されるからです』。
マタイ18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
ルカ6:27-29 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」
『キリストに愛されてたわたしたちは、この世に満ちる差別・暴力・不正の犠牲者に寄り添い、不安と恐れの 中にいる人々の隣人となることを選び取ります。また、加害者の責任を問いつつも自ら罪人であることを忘れずにへりくだり、赦しの愛によって平和をつくる道を模索します。キリストの十字架を掲げる教会は、もはや敵意と憎悪に生きることができないからです。』
ここでは、差別・暴力・不正の犠牲者に寄り添うこと。不安と恐れの 中にいる人々の隣人となること。
赦しの愛によって平和をつくる道を模索することを目指しています。
私たちは自分が被る不正や被害には敏感ですが、被害にあっている人々に対しては、実に鈍感です。
しかし、イエスキリストの愛を知り、イエスキリストの十字架を掲げる教会は、そうであってはならないのです。
最後の段落は、わたしたちには地上を正しく治める責任があることを思い出させてくれます。
神は、天地を創造したとき言われました。
④創世記1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
これは、人間が正しく地上を治めるように、という神の命令です。
『わたしたちにはまた、神の被造世界における平和と正義を希求し、これをよく治める責任(スチュワードシップ)が委ねられています。それゆえ、すべての人間の命を脅かす生態系の破壊や原子力発電所問題など、環境を巡る平和と正義にも関心を持ち続け、被造物の保全と回復のために努力します。』
神の創造された世界の平和と正義を希求すること、よりよく治める責任について、現代社会のいくつかの問題が具体的に記されていますが、これ以外にも様々な問題があります。私たちが「平和」を考えるとき、これらのことにも目を向ける必要があるということです。
「慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけする」
私たちは、イエス・キリストを通して、神の平和に出会っています。
そういう私たちが、具体的に今、生きている社会の中で、目を注ぐべき事柄がここでは示されています。
広い視野をもって世界を見渡し、祈り、それぞれができることで、世界の平和に仕えていこうではありませんか。