戦争と平和と国家-平和宣言を学ぶ③
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 イザヤ書 2章1節~5節
◆終末の平和
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
イザヤ書 2章1節~5節
<説教要約> 2024年9月1日 イザヤ書2章1-5節 「戦争と平和と国家-平和宣言を学ぶ②」
「平和宣言」の学びの2回目です。今朝は、「2.戦争と平和と国家」を扱いますが、最初にイザヤ書2章4節が記されていますので、まずイザヤ書2章1~5節を見ます。
イザヤ書2章1~5節につけられている小見出しは「終末の平和」。ここで神が預言者イザヤに示されたことは、世の終わりのとき、いわゆる終末、イエス・キリストが再臨されるときに起こることです。イザヤの時代も、今も、私たちの世界には争いが絶えない、国と国との戦争が絶えない、それが現状です。
しかし、今はそうであったとしても、「終わりの日」に主なる神が、国々の争いを裁き、神の民は、神の祝福を受けて、平和を享受することができる。そういう希望が、ここに預言されています。
このイザヤの預言、私たちはイエス・キリストによる救いまでを視野に入れて読む必要があります。つまり、救い主キリスト・イエスの福音の恵みによって神の民とされた新しいイスラエルであるキリスト者、クリスチャンに与えられる祝福が預言されているのです。
「主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。」は、神の言葉である救い主、メシア・キリストが人となって、この世に来られ、その方の十字架と復活の福音がエルサレムから全世界に告げ知らされていくことを預言しています。
そして4節、「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」。
神は世界の終わりの日に、争いに明け暮れる民を裁かれます。そのとき、終末の時に、地上の国家主義、民族主義による争いはやみ、人々は剣や槍などの武器を捨て、それを鋤や鎌など、農耕を行う道具に作り直す。そうして、真の平和がもたらされる、というのがこの預言の意味です。
イザヤの時代、ユダの人々はアッシリヤの圧制を受けて苦しんでいました。そういう中でイザヤは、ユダの人々が、困難な中でもまことの神に目を向けて、神にあって希望を持ち続けるように、と諭し励ましたのです。そして現在、救い主、メシアが到来し、救いの道が備えられ実現した今も、イザヤの時代と同様に、世界には戦争があり、民を苦しめる支配者がいます。
しかし、イエス・キリストに結ばれて神の民とされた人々は、終わりの日、キリストの再臨の時に与えられる恵みは約束されています。
5節「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」は、1‐4節のまとめ、奨励です。
「ヤコブの家」とはまことのイスラエル、イエス・キリストに結ばれた神の民のこと。ですから私たちへの呼びかけです。終末の完成の時に、神は究極的に、神の民に平和をお与えになるから、希望をもって、主なる神に信頼して今を生きよう。イエスと共に、主の光の中を歩もう、という奨励、励ましです。
しかし、一方でこれは、終末の完成までは、地上に全き平和は実現しない、ということでもあります。
そういう中で、では私たちは、今をどのように生きることが求められているのでしょうか。
平和宣言 2.戦争と平和と国家
では、宣言を読みながら、少ずつ見ていきましょう。
『神の平和とこの世の平和を同一視することはできませんが、両者を切り離すことも できません。この世界は、神のものだからです。 罪と悲惨の絶えない人間世界には暴力が満ちています。とりわけ、多くの国民を巻き込む戦争や紛争やテロリズムなどによって、いつの時代にも数知れない人々が犠牲となり、それに巻き込まれた人々の心の傷も消え去ることがありません。この世においては、いかなる戦争も、神の前に罪を免れることはできないのです。』
神の平和と世界の平和は同じではないこと。しかし別ものでもないことが確認されています。この世界は、神ご自身が創造し、今も治めておられますが、人間の罪が満ちた世界でもあります。ですから、罪と悲惨がはびこり、暴力が満ち、犠牲となる人々が絶えないのです。
『聖書における古代世界の戦争記述を通して、神が究極的に教えようとしておられることは、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタ 26:52)という真理であり、御自分の民が武力ではなく主に信頼するようになることです。キリスト教の歴史におけるいわゆる「正しい戦争」または「合法的戦争」も、本来、戦争を抑止し正義と平和を維持するための最終手段として容認されたものであり、ましてや神の名の下に戦争を積極的に推進させる「聖なる戦争」の主張は根本的な誤りです。それゆえ、主の教会は、戦争を紛争の解決手段として正当化すべきではなく、まして大量殺戮兵器を用いる現代の戦争を肯定することはできません。』
旧約聖書には神が「敵を滅ぼし尽くせ」と命じている記述が何か所かあります。それらを根拠に、今も選民としてのイスラエル=ユダヤ民族を語る人がいます。しかしこれは、その時代に与えられた神の命令であり、普遍的なメッセージとして読むべきではありません。神がその時、その時代の人々に示されたことと、普遍のメッセージとして示されていることを区別して読む必要があります。
旧約聖書の中心は、悔い改める民に対する神の愛と祝福です。そして、その祝福は特定の民族、民だけでなく、すべての民に及びます。
創世記12:2-3のアブラハムへの祝福では、地上のすべての民が念頭に入れられています。神は、アブラハムの子孫としてのユダヤ人だけを救おうとしておられるのではありません。
ホセア6:6には「 わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」とあります。これは「滅ぼし尽くせ」とは相いれない言葉です。「神を知る」「神との交わりを持つ」「神を信じる」人を神は喜ばれるのです。
つまり、旧約聖書も含めて、神は戦争を、人間の殺戮を命じてはいないのです。
そして今や、「正しい戦争」「合法的戦争」「聖なる戦争」も認められません。ましてや、「大量殺戮兵器を用いる現代の戦争」を肯定することは、誤りです。
戦争で犠牲となるのは、神のかたちとして造られた人間です。
『わたしたちは、敵をつくり出し平和問題を軍事的安全保障の問題に置き換えようとする国家的為政者やマスメディアに欺かれることなく、神のかたちに創造されたすべての人間の命を守ることこそが平和の道であると訴えます。それゆえ、戦争を回避して国々の間に平和をつくり出すあらゆる非軍事的な働きには積極的に協力し、とりわけ、核兵器による惨禍を経験した唯一の被爆国にある教会として、核兵器を含むあらゆる大量殺戮兵器の廃絶を訴えます。』
神のかたちに創造されたすべての人間の命を守ることが平和の道である、と宣言は訴えます。
今日の戦争では、無人兵器や大量殺りく兵器が使われ、ボタン一つで攻撃できる戦いでは相手の顔が見えません。しかし、背後に多くの人の命があること、その一人一人が神のかたちとして造られた人間であること。一人一人に、家族や愛する者たちがいることを私たちは忘れてはなりません。
最後の段落、読みます。
『この世における平和は、確かに暫定的なものです。それにもかかわらず、わたしたちは、国家的為政者が、世界の平和と正義の実現のためにキリストから委ねられている権能を正しく行使できるようにと祈ります。しかし、彼らが自己の権力を絶対化し、 キリストからの権能を濫用し、それによって人々の命と人権が脅かされる時には、毅然として主の御心を宣言して抗議します。さらに、聖霊が促す時には、人に従うよりは神に従うために国家的強制に抵抗し、徴兵制が実施されるような場合には、良心のゆえに兵役を拒否する人々と連帯します。』
初めにイザヤ書2章で見た通り、「終末の完成までは、地上に全き平和は実現しない」 ということは、残念ながら確かなことです。
しかし、それでも神は私たちに言われます。
「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)
今、世界の状況を見ても、また日本政府を見ても、戦争へと向かう不安がぬぐえません。そういう中で私たちにできることは、まずは平和のために祈ることです。
宣言文では「国家的為政者が、世界の平和と正義の実現のためにキリストから委ねられている権能を正しく行使できるようにと祈ること」とあります。
しかし、それで十分ということではない。実際に、為政者が、政治が、戦争へと歩みを進める時には、「毅然として主の御心を宣言して抗議します。」と記しています。そのために、私たちは、世界の状況や為政者たちの動向をしっかりみている必要があります。決して、あきらめや無関心であってはなりません。
さらに、この宣言はもう一歩踏み込んで「良心的兵役拒否」に触れています。
「聖霊が促す時には、人に従うよりは神に従うために国家的強制に抵抗し、徴兵制が実施されるような場合には、良心のゆえに兵役を拒否する人々と連帯します。」
これは実に重大かつ大きなことですから、常日頃からよく考え、心の備えをしておく必要があります。
もう一か所聖書イザヤ書9:6を読みます。「ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」 神の国はイエス・キリストによって既にこの地上に始まっています。
人間がどのように罪深くとも、また地上の世界がどれほお平和とかけ離れていても、神が神の国を完成にまで至らせること、神の平和を成し遂げられることは、保証されています。それを成し遂げるのは、人間ではの努力ではなく、神の熱心、神の側の愛だからです。
私たちがその業に加わるか、加わらないかは、神にとっては重要なことではありません。
神がご自身の計画、平和の実現を成し遂げられるのは神の業だからです。
しかし、たとえそうであったとしても、神は、平和を実現する働きに、私たちも加えられることを望んでおられます。
平和を実現するために私たちが働くことを喜んでくださるということを、私たちは覚えたいのです。
たとえ、平和とは程遠いと思われるときにも、平和のために祈り、仕え、働くことを忘れてはなりません。