Youtube動画 礼拝全体を録画した動画を公開しています。 Youtubeで直接視聴する 音声ファイル 礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。 再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 マタイ5章9節 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』マタイによる福音書 5章9節 メッセージ 説教要約 マタイによる福音書5章9節 「平和を実現する人は幸い-平和の宣言を学ぶ①」 何回かの主日礼拝を使って、昨年私たちの教派が採択した「平和の福音に生きる教会の宣言」(以下「平和宣言」)を学びます。今日はその1回目です。ですがまず、今朝私たちに与えられているみ言葉に注目します。マタイ5:9「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」 9節は「平和を実現する人々は幸い」とありますから、積極的に平和のために働く、あるいは生きることが想定されています。ですが、聖書の語る「平和」は、まず、神と人との関係で用いられています。ローマ1:7、ローマ 5:1、二ペトロ1:2など参照。聖書が語る「平和」は、神との関係で罪赦され、神の前に立つことができる状態を指します。人は「神との平和」があって初めて、「人との平和」も実践できるのです。さらに9節後半「その人たちは神の子と呼ばれる。」は、罪赦されて神との平和な関係があり、そのうえで人とも平和な生き方をする人、平和を作り出そうとする人は、「神の子と呼ばれる」です。「呼ばれる」とは「人からそう呼ばれる」ということではありません。実際にその名が示すものである、という意味です。つまり、イエス様はここで、「その人たちは神の子である」と宣言しておられるのです。ここまでを理解した上で、平和宣言について、実際に見ていきましょう。この宣言は「憲法委員会第一分科会」という大会の委員会が中心になって原案を作り、それを大会会議で検討し、採択されたものです。委員会がこの作業に着手したのは2018年ですが、その次点では想定していなかったいくつかのことが起こり、実際に採択されたのは2023年10月です。本日は、「序文」と「1神の平和と世界の平和」を見ていきます。<序文>序文を読みながら、少しずつコメントしていきます。(1)現状と私たちの使命…この宣言の意味今から79年前、つまり第二次世界大戦に敗戦した時点で、戦争のない世界を願い、又二度とこのような悲惨な戦争をしないことを誓いました。しかしたった79年で、人類は過去の悲惨な経験を忘れ、各地で武器を用いた戦いがあります。これが人間の罪の世界の現実です。しかしそういう中にあって、キリスト者として、又教派としての責任を宣言する!というのが、この「平和宣言」です。(2)戦争の責任を告白した教会として私たちの教派は、創立宣言と30周年宣言で、戦争の責任を告白してきました。序文では特に、3つの責任に言及しています。・軍部主導で戦争へと進んだ政治に対して、み言葉の真理を主張しなかったこと・・・国家に対する見張りの務めを果たさなかったこと。・国家神道儀礼に迎合したこと…偶像礼拝の罪・アジアへの侵略戦争に協力したことその結果として、平和の福音に生きる教会としての熱心を忘れ、社会的・民族的な差別にも加担したことを自らの責任として告白しています。(3)戦後の日本 戦争へ向かう政治、構造的暴力敗戦後、日本は、平和主義と戦争放棄の理念のもと、再出発しました。特に、日本国憲法の前文と第九条は、多くの命の犠牲の上に勝ち取った大切なものです。しかし79年たった今、日本には再び戦争遂行を可能とするような動きがあります。憲法改正(改悪)の動き、防衛費の増強、攻撃兵器の導入などなど。さらに、日本社会にみられる「構造的暴力」にも言及しています。「構造的暴力」とは、平和に生きる権利を奪う貧困、差別、人権侵害、環境破壊、経済的弱者の切り捨て、などを指しています。(4)平和への誓いこのような現実の中で、私たちはもう一度過去を振り返り、その反省に立って、神の言葉に立ち帰ることが求められています。「平和を実現する人人々は、幸いである、その人たちは、神の子と呼ばれる」 このみ言葉に応え、過去の過ちを繰り返さないために、今日と将来の教会への責任を明らかにして、この世界におけるキリストの平和の実現に献身することを誓います。・・・というのが、この宣言の持つ意義です。<1.神の平和と世界の平和>ここでは、まずコリントの信徒への手紙Ⅱ5章18b節が記されています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」聖書が示す平和(シャローム)とは、単に戦争や争いのない状態にとどまりません。神との霊的な関係における自由と幸福、そして同時に、肉体的健康や物質的充足、人間関係における調和や喜びまでが含まれます。実は、これらは、創造の最初に神が人類に与えておられたもの、エデンの園での状態なんですね。しかし、人間の堕落、罪によって、自ら神との平和、隣人との平和を手放し、その結果が今の悲惨な世界の現実です。少し、本文を読みます。「それにもかかわらず、平和の神は人間を愛し、この世に真の平和を回復するために御子をお遣わしになりました。御子イエス・キリストは、弱さの中にいる人々の病を癒し、空腹を満たして、その心に喜びを与えられただけでなく、十字架の苦しみと死によって、敵意という隔ての壁を打ち破り、永遠の平和を樹立されました。」キリストの十字架は、人類に罪の赦しを与えるに留まらず、平和の回復も与えられます。キリストの十字架は敵意を打ち破り、永遠の平和を樹立するものだからです。エフェソ2:14-16参照。キリストの教会は、「平和の福音」に生きる共同体として、三位一体の神を礼拝し、平和の福音を伝え続けて、世界に真の平和と祝福をもたらす使命があります。しかし、平和を実現するのは私たちの力ではなく、神の熱心によることも覚える必要があります。最終的に、神がご自身のご計画の中でそれを実現してくださるのです。 イザヤ9:6参照 「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここにこそ、まことの平和の希望があります。 関連する説教を探す 2024年の日曜朝の礼拝 『マタイによる福音書』
説教要約 マタイによる福音書5章9節 「平和を実現する人は幸い-平和の宣言を学ぶ①」
何回かの主日礼拝を使って、昨年私たちの教派が採択した「平和の福音に生きる教会の宣言」(以下「平和宣言」)を学びます。今日はその1回目です。
ですがまず、今朝私たちに与えられているみ言葉に注目します。
マタイ5:9「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」
9節は「平和を実現する人々は幸い」とありますから、積極的に平和のために働く、あるいは生きることが想定されています。ですが、聖書の語る「平和」は、まず、神と人との関係で用いられています。
ローマ1:7、ローマ 5:1、二ペトロ1:2など参照。聖書が語る「平和」は、神との関係で罪赦され、神の前に立つことができる状態を指します。人は「神との平和」があって初めて、「人との平和」も実践できるのです。
さらに9節後半「その人たちは神の子と呼ばれる。」は、罪赦されて神との平和な関係があり、そのうえで人とも平和な生き方をする人、平和を作り出そうとする人は、「神の子と呼ばれる」です。「呼ばれる」とは「人からそう呼ばれる」ということではありません。実際にその名が示すものである、という意味です。
つまり、イエス様はここで、「その人たちは神の子である」と宣言しておられるのです。
ここまでを理解した上で、平和宣言について、実際に見ていきましょう。
この宣言は「憲法委員会第一分科会」という大会の委員会が中心になって原案を作り、それを大会会議で検討し、採択されたものです。委員会がこの作業に着手したのは2018年ですが、その次点では想定していなかったいくつかのことが起こり、実際に採択されたのは2023年10月です。
本日は、「序文」と「1神の平和と世界の平和」を見ていきます。
<序文>
序文を読みながら、少しずつコメントしていきます。
(1)現状と私たちの使命…この宣言の意味
今から79年前、つまり第二次世界大戦に敗戦した時点で、戦争のない世界を願い、又二度とこのような悲惨な戦争をしないことを誓いました。しかしたった79年で、人類は過去の悲惨な経験を忘れ、各地で武器を用いた戦いがあります。これが人間の罪の世界の現実です。
しかしそういう中にあって、キリスト者として、又教派としての責任を宣言する!というのが、この「平和宣言」です。
(2)戦争の責任を告白した教会として
私たちの教派は、創立宣言と30周年宣言で、戦争の責任を告白してきました。
序文では特に、3つの責任に言及しています。
・軍部主導で戦争へと進んだ政治に対して、み言葉の真理を主張しなかったこと・・・国家に対する見張りの務めを果たさなかったこと。
・国家神道儀礼に迎合したこと…偶像礼拝の罪
・アジアへの侵略戦争に協力したこと
その結果として、平和の福音に生きる教会としての熱心を忘れ、社会的・民族的な差別にも加担したことを自らの責任として告白しています。
(3)戦後の日本 戦争へ向かう政治、構造的暴力
敗戦後、日本は、平和主義と戦争放棄の理念のもと、再出発しました。特に、日本国憲法の前文と第九条は、多くの命の犠牲の上に勝ち取った大切なものです。
しかし79年たった今、日本には再び戦争遂行を可能とするような動きがあります。憲法改正(改悪)の動き、防衛費の増強、攻撃兵器の導入などなど。
さらに、日本社会にみられる「構造的暴力」にも言及しています。「構造的暴力」とは、平和に生きる権利を奪う貧困、差別、人権侵害、環境破壊、経済的弱者の切り捨て、などを指しています。
(4)平和への誓い
このような現実の中で、私たちはもう一度過去を振り返り、その反省に立って、神の言葉に立ち帰ることが求められています。
「平和を実現する人人々は、幸いである、その人たちは、神の子と呼ばれる」
このみ言葉に応え、過去の過ちを繰り返さないために、今日と将来の教会への責任を明らかにして、この世界におけるキリストの平和の実現に献身することを誓います。・・・というのが、この宣言の持つ意義です。
<1.神の平和と世界の平和>
ここでは、まずコリントの信徒への手紙Ⅱ5章18b節が記されています。
「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」
聖書が示す平和(シャローム)とは、単に戦争や争いのない状態にとどまりません。神との霊的な関係における自由と幸福、そして同時に、肉体的健康や物質的充足、人間関係における調和や喜びまでが含まれます。実は、これらは、創造の最初に神が人類に与えておられたもの、エデンの園での状態なんですね。
しかし、人間の堕落、罪によって、自ら神との平和、隣人との平和を手放し、その結果が今の悲惨な世界の現実です。
少し、本文を読みます。
「それにもかかわらず、平和の神は人間を愛し、この世に真の平和を回復するために御子をお遣わしになりました。御子イエス・キリストは、弱さの中にいる人々の病を癒し、空腹を満たして、その心に喜びを与えられただけでなく、十字架の苦しみと死によって、敵意という隔ての壁を打ち破り、永遠の平和を樹立されました。」
キリストの十字架は、人類に罪の赦しを与えるに留まらず、平和の回復も与えられます。キリストの十字架は敵意を打ち破り、永遠の平和を樹立するものだからです。エフェソ2:14-16参照。
キリストの教会は、「平和の福音」に生きる共同体として、三位一体の神を礼拝し、平和の福音を伝え続けて、世界に真の平和と祝福をもたらす使命があります。
しかし、平和を実現するのは私たちの力ではなく、神の熱心によることも覚える必要があります。最終的に、神がご自身のご計画の中でそれを実現してくださるのです。 イザヤ9:6参照
「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここにこそ、まことの平和の希望があります。