律法の支配から恵みの支配へ
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 2章21節~28節
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子は安息日の主でもある。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章21節~28節
<説教要約>2024年8月4日マルコ2:21-28 ⑫律法の支配から恵みの支配へ
イエス様はマルコ2章21-22で2つのたとえをお話になりました。
マルコ2章21節は、継ぎ当てのたとえです。服に穴が開いてしまったとき、別の布を縫い付けて補修する話ですが、例えば古い服に穴が空いてしまったので、そこに新しい布を縫い付けて穴をふさいだとするとどうなるでしょう。周りの古い布がかえって裂けてしまい、結果として穴がもっと大きくなるということが起こります。古いものと新しいものを一緒にしてはならないという教えです。
マルコ2章22節はぶどう酒のたとえです。当時、ぶどう酒は雌ヤギの革で作った袋に入れて保存したそうです。もし、古くなって弾力を失った革袋に、新しくて発酵を続けているぶどう酒を入れたら、袋の中にガスが充満してやがて革袋が破裂してしまう。そうなれば革袋もぶどう酒もだめになってしまう。ですから「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」となります。この話も「継ぎ当て」のたとえ同様、古いものと新しいものを一緒にしてはならないという教えです。
イエス様と出会い、イエス様の十字架と復活を信じ、罪の赦しをいただいて生きる私たちは、すでに新しい者とされています。新しい者とされたからには、古い自分に、過去の生き方に執着するのではなく、前を向いて、イエス様と共に歩み出しましょう、というメッセージです。
古い約束、旧約に固執して、キリストの十字架と死と復活を受け入ないユダヤ教の人々は、神の国の救いに入れないまま今も苦しんでいます。しかし、神の救いの御計画は、常に完成に向かって進んでいます。
進んでいく神のご計画の中に、神の国の進展の中に、日本キリスト改革派教会も、川越教会も、私たちも、置かれているのです。ですから、古いものに、過去にこだわり続けるのではなく、前に向かって進んでいく神の国の御業に目を向けたいと思います。キリストと共に、前に向かって歩んでいくことで、神の大いなる救いの御業をこれからも見せていただきましょう。
2章23-28節は、安息日に麦の穂を摘んだことで生じた論争、いわゆる「安息日論争」。
23節 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
24節ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
すると、イエスは
25節「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。」とお答えになったのです。この時の状況を想像してみましょう。
なぜ弟子たちは畑の麦の穂を摘んで食べたのでしょうか。単に、食い意地が張っていたのでしょうか? いいえ、この時弟子たちは空腹だったのです。弟子たちは、安息日に会堂で神の国の福音を宣べ伝えるイエス様のお供をして、この日を忙しく過ごしたのでしょう。その結果彼らは空腹に耐えかねて、つい畑の麦の穂に手を伸ばしてしまった。彼らはその日、主イエスに従って、食事をする時間もとれないほどに忙しく、働いていたのです。
イエス様に従う歩みは幸いな歩みでありますけれど、忙しいことでもある。それは、昔も今も同じようですね。真剣に、イエス様に従って歩もうとすればするほど、私たちの生活もまた忙しくなる。
第一、日曜日にゆっくりできません。特に現役世代の方々は、週日の仕事があり、日曜日には教会の奉仕があり、家庭も顧みる必要がある。本当に忙しい働きをなさっていると思います。お一人お一人の働きが支えられるように、祈りたいと思います。まあでも、支えられて、忙しく活動できる時には、そういう中で主・イエスに従い、またゆっくり従える時には、そのような中で仕えていく。私たちの人生にはいろんな時があるので、その時々にふさわしい形で主に従いたいものです。
ここでの話は「安息日の守り方」です。
安息日に関して、私には思い出があります。私が高校生の頃、夏のキャンプで出会った一人の姉妹、私より1~2歳年上の牧師のお嬢さんでしたが、その方は、「今までに一度も運動会に参加したことがない」というのです。今はどうなのかわかりませんが、私たちの頃は、運動会は日曜日でした。それで牧師である父親から、主を礼拝する日曜日に自分の楽しみのために運動会に参加すべきではない、と教えられて育ったそうです。さらに驚いたのは、その姉妹が高校三年になって、修学旅行の真中に日曜日がかかったそうです。この時彼女は学級委員をしていて、責任ある立場にありました。それで、自分の楽しみのためではなく、責任のために修学旅行に行くことを決断し、両親の了解を得たそうです。しかしちょうどこの時彼女は盲腸になって入院し結局修学旅行に行かれなかったそうです。それで彼女は自分の決断が間違っていたと反省していたのです。未信の家庭で育った私には、この話は衝撃でした。しかし、主の日の大切さ、礼拝を守ることの重要性を考えるきっかけにもなったのです。
安息日については、十戒の第四戒で「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とあります。安息日を聖なる日として、他の日と区別して、神様を礼拝する日として取り分けるようにという教えです。
その根拠が創世記2章3節「神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」私たちは神の御業への感謝の応答として、第七の日を安息日として、そしてキリストの十字架・復活後は週の初めの日を主の日として、他の日と区別して礼拝をささげます。
一週間の業から離れ、神のみ前に出て、罪を悔い改め、み言葉と礼典と祈り、讃美を通して神との交わりを回復する時として用いるためです。この日は神礼拝のために聖別すべき日ですが、同時に私たちの信仰のため、私たちが主と共に生涯を歩み続けられるように、定められた日でもあります。
さらに、安息日には安息する、休むという意味もあります。神との豊かな交わりの時と共に、労働から離れて休息する、休む、という意味もあるのです。私たちはそのことも覚えながら、主の日をあまり忙しくしすぎないようにしなければいけません。
27節安息日は、人のために定められた。」のです。安息日は人が命を得るために定められた日であって、「人が安息日のためにある」のではありません。
イエス様は28節で、もう一つ大切な発言をなさっています。「だから、人の子は安息日の主でもある。」「人の子」とは、主ご自身のこと。「主・イエスこそが安息日の中心」です。イエス様は、十字架と復活を通して、罪ある人間がまことの安息、神の恵みの中に入る道を備えてくださいました。もちろんこの時点では、まだ先の出来事になりますが。しかしその先取りとしてのこの発言。それが「人の子は安息日の主でもある」。です。
律法の精神は「神への愛と人への愛」であり、人は律法を守ることで神との関係も隣人との関係も平和であり、神の民として恵みと祝福の内に生きることができる。それが今私たちに与えられている律法の意味です。
形式的な律法理解、がんじがらめの律法順守から、人々を救って、神の恵みの支配へと招き入れてくださるのが主イエスの福音であり、正しい律法理解です。安息日厳守に関しても同じことが言えます。
私たちは、それぞれ置かれている状況が違い、必ずしも主の日を厳守できるとは限りません。しかし、一人一人がそれぞれの歩みの中で、主の日をどのように聖別し、どのように守ることが、神の恵みの中で生きることなのかを考え、選び取っていくことが大切です。