断食は必要か
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- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 2章18節~20節
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章18節~20節
聖書には、断食の記事が結構でてきます。旧約聖書には、罪の赦しと悔い改めのあかしとして、あるいは切実な祈りとともに、または悲しみの表現として断食をするという例があります。
たとえば、モーセが十戒の板を受ける為に山に登っている間に、イスラエルの民が金の子牛を作って拝んだという事件がありました。その時モーセはイスラエルの犯した罪の赦しのため、40日40夜断食をして神に赦しを求めました。サムエルもイスラエルの罪のために断食した、という記事があります。ダビデは子どもの病気の癒しを願って断食し、神に祈りました。
旧約聖書にある断食は、何か目的があって、信仰的に神と相対するための行為でした。
新約聖書にも、信仰や真剣な願いのために断食を行った人々の姿があります。年老いた女預言者アンナは「宮を離れず,夜も昼も,断食と祈りをもって神に仕えていた」とあります。アンテオケ教会はバルナバとサウロを異邦人伝道に派遣する際、「断食と祈りをして」彼らを送り出しました。
これらは、祈りに専念するための断食といえるでしょう。
では、今日の箇所の断食はどうでしょうか?
「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた」と言われているこの断食は、当時のユダヤ人たちが、ファリサイ派の指導のもとに行っていたものです。ルカ福音書には、ファリサイ派の人が「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と自分の行いを誇るような発言が記されています。毎週、規則的に断食することが当時のユダヤ教の重要な教えでした。
そしてこれは、信仰的な目的があってその手段として断食をするというというより、断食という行為そのものが目的で、それが敬虔な信仰者の印となっていたのです。断食が信仰と離れて形式になっていた、とも言えるでしょう。しかし人々は、ユダヤ教徒であるなら断食は宗教的義務、やるべきこと!と信じていました。
ところがイエス様はご自身も断食しないし、弟子たちに断食を強要しません。それどころかイエス様は罪人と共に食事の席に着き、飲食を楽しみ、禁欲的な律法を何一つ行わなかったのです。そういう姿に人々は戸惑ったし、多くの人はその様子を批判的に見ていたのです。
この批判に対してイエスは3つのたとえをお話しになりました。それが19節から22節に記されています。
今朝は、3つのたとえの中で最初のたとえ、19-20節だけを見たいと思います。
19節イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」イエス様はしばしば、神の国の喜びを婚礼にたとえています。
婚礼は、終末の救いの喜びの象徴であり、そこに登場する花婿は終末的な主権者、救い主であるメシア・キリストです。そして「花婿が一緒にいる」、つまり、救い主であるキリストが共におられることが決定的なことです。イエス様が地上に来られ、神の国の福音が語られているこの時、すでに婚礼は開始されたのです。その婚礼の席に招かれ、花婿と共にいる人々は、神の国の祝宴に招かれた人々です。彼らは、婚宴の席に招き入れられ、花婿と共にいるのですから、それは喜びの時です。主が共におられる喜びの時に、断食は必要ありません。
20節「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」
「花婿が奪い取られる時」これは、イエス様がやがてたどられる十字架と死を指しています。イエス様が十字架の死をとげられ、弟子たちから奪い取られる時、弟子たちは悲しみと共に自ら断食することになるのです。もっとも、この時点では誰一人そのことを理解してはいませんでした。
そして、ことが起こったのち、原始教会では当時のユダヤ教徒たちと同じように、週2回の断食を行ったそうですが、
ですが、ユダヤ教では月曜と木曜に断食していたのを、キリスト者たちは火曜と金曜に断食をしたそうです。それは、キリストの受難の金曜日に、キリスト者の悲しみを重ね合わせるためでした。ですから、当時のキリスト者たちの断食は、キリストの十字架に根拠を置いた、ということになります。
しかし、キリストは十字架で死なれたままでなく、確かに復活なさったのです。ですから、金曜日の断食の意味も失われた、ということができます。
ただし、断食を悔い改めのとき、あるいは真剣に神に向かうときとして行うなら、その人の信仰にとっては意味があるかもしれません。
どちらにしても、断食は他人から強要されて行うことではないということは覚える必要があります。
まとめ
ある宗教行為が本来の目的から離れて、形式となり、それを行うことが目的になってしまう。
そういうことがときに起こります。では、私たちはどうでしょうか。
洗礼を受けるときの誓約事項が6つありますが、その中の一つにこのような項目があります。
「あなたは、最善を尽くして教会の礼拝を守り、その活動に奉仕し、教会を維持することを、約束しますか。」
礼拝を守ること、教会の活動に奉仕すること、教会を維持することについての誓約です。礼拝と奉仕と献金は教会員の義務、と言えるわけです。
これらはもちろん、信仰生活を続けていくために、また教会を支えていくために、必要なことです。
そこに「最善を尽くして」という言葉がついていることも重要です。ひとりひとりで事情が異なります。そしてその事情は、本人と神様だけが知っていることです。ですから一人一人が神様の前に「最善を尽くす」ことが重要なのです。
しかし、これを形式的、あるいは義務感で行っているのであれば、ファリサイ派の人々と同じことになります。
何故礼拝を守るのか。
何故、教会活動に奉仕するのか。何故、教会を維持するために献金をささげるのか。
一つ一つの行為の意味を考えながら、そのとき自分が置かれている状況の中で最善を尽くすことが求められています。
義務感だけで礼拝に出席し、聖餐の礼典に与り、奉仕し、献金しているなら、私たちも、当時のファリサイ派の人々が代表するユダヤ教徒と同じことになってしまうからです。
一つ一つのことに込められた意味を理解し、吟味して、信仰の歩みを続けることが大切です。
いつの日か加えられる神の国の祝宴の恵みを覚えつつ、喜びをもって日々の信仰の歩みを進めていきましょう。