罪人を招くため
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 2章13節~17節
イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章13節~17節
<説教要約> マルコ2:13-17 ⑩罪人を招くため
イエス様はカファルナウムのペトロの家に滞在しておられました。2章1-12節では、ペトロの家に人々が押し寄せてきたので、イエス様はそこでみ言葉をお語りになりました。もっとも、この時には、突然屋根がはがされて病人がつり降ろされる、ということが起こり、結局「癒し」になったのですが。
しかし結末は12節後半。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
13節からが今日の所です。
イエス様は「再び湖のほとりに出て行かれた」とあります。ペトロの家はぎゅうずめ状態でしたから、もっと広い場所ということで、ガリラヤ湖のほとりを選ばれたのでしょう。そして「再び」とありますから、何度もガリラヤ湖のほとりに行って、群衆にみ言葉を語ることを繰り返しておられたと推察します。
その途中で、イエス様と群衆は収税所の前を通ったようです。たぶん、何度も。
しかし、その様子には全く関心がないかのように、目を伏せて、収税所の中でポツンと座っている一人の男がいました。それがレビです。レビは徴税人でした。何度もお話ししていますが、徴税人はユダヤ人社会の中では嫌われ者NO1、罪人の筆頭、ともいえる職業です。職業で人を差別してはいけないのですが、しかし当時のユダヤでは二つの理由で徴税人は軽蔑されていました。仕事の内容が、ユダヤを支配しているローマ政府へ治める税金の徴収だということ。また、貧しい人々からも容赦なく税金を取り立て、さらには必要以上に取り立てて私腹を肥やしていたことも理由の一つです。
多くの人が収税所の前を通り過ぎる時、レビは無関心を装い、どうせ自分は嫌われ者だ、イエス様など自分には関係ないと思っていたのでしょうか?
しかし、イエス様の方から、レビに近づき、声をおかけになったのです。「わたしに従いなさい」と。
15節から17節はそんなに長い文章ではないのですが、その文中に、「徴税人と罪人」という組み合わせが3回も出てきています。
この二つの言葉「徴税人と罪人」という言葉は、当時のユダヤ人社会の中で政治的、倫理的、あるいは宗教的な理由で、軽蔑され、排除されていた人たちの象徴のような言葉です。「徴税人と罪人」と言われる彼らは世間から見捨てられ、相手にしてもらえない、そういう人々でした。しかし、イエス様は、そのような状況のレビに、イエス様の方から、声をかけられたのです。
短く、たった一言。「わたしに従いなさい」と。すると「彼は立ち上がってイエスに従った」のです。
イエス様の呼びかけも短い言葉ですが、レビの対応も短い言葉です。「彼は立ち上がってイエスに従った。」
ほんの少し前に、イエス様が、ペトロとアンデレに「わたしについて来なさい」とお声をおかけになった出来事。そして「二人はすぐに網を捨てて従った」とありましたが、その時と全く同じことが繰り返されたのです。レビは徴税人という働きを捨てたのでしょうか? そこはわかりませんが彼のしたことが15節に記されています。
レビの従い方は、自分の家に食事の席を設ける、という形で現されました。
15節「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」
この食事の席は、イエスに従ったレビが最初にした行為で、レビの喜びの表現と言えるでしょう。
人々に見捨てられ、罪人とさげすまれていたレビが、主イエスに見いだされ、受け入れられた。そのことの喜びの席、祝宴です。さらに、人々に見捨てられた存在だった自分に声をかけ、受け入れてくださったイエスという方を、その方の教えを、同僚や仲間たちにも紹介したい、という思いで開いた食事会でした。
あるいは、レビより先に同じ喜びを体験していた同僚や仲間がいたのかもしれません。とにかく、多くの徴税人や罪人が同席していたのです。
注目したいのは、これはただの会食ではないということです。食卓の中心に主・イエスがおられるのです。
黙示録3:20には「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」とあります。イエス様の側から、レビを、さらには多くの徴税人や罪人を、招かれたのです。
私たちも、この後、イエス様が真ん中におられる食卓、聖餐の礼典に与ります。
イエス様は今朝、この聖餐の礼典、恵みの食卓に、レビを招かれたように、私たちを招いてくださったのです。イエス様は私たちを礼拝へと招き、聖餐の礼典に招き、そのようにして神の国の民として私たちを召してくださるお方です。今朝、共にこの食卓に招かれ、召し入れられたことを感謝したいと思います。
一方で、罪人や取税人たちと食事を共にされた主イエスを、ファリサイ派の律法学者たちは批判します。
「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。その批判に対するイエスのお答えが17節。
17節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
前半部分「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」はファリサイ派の人々にもよくわかる、納得できる発言でしょう。しかしここにはイエス様の皮肉が含まれています。
では後半はどうでしょうか?「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
仮にも、人々を教える立場にある教師が、罪びとを招く、食事を共にして交わりを持つ、などということは、ファリサイ派の律法学者たちには考えられないことでした。しかし、主イエスはおっしゃいました。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
ここで主イエスが批判しておられるのは、自らの罪を自覚しない生き方でしょうか?
そうです。自分の罪を自覚せず、隣人の罪を裁く偽善者のような当時の宗教指導者たちの態度です。
ルカ 6:41-42をお読みください。
私たちも、まずは、人の罪を、態度を批判する前に、自分の罪を自覚することが必要です。しかし、自覚していればいいのでしょうか? 本当の意味で、自らの罪を自覚したとしたら、人はただ落ち込むだけではないでしょうか?
主イエスは、そんなレビに目を留めて、招きの言葉をかけられました。また、罪や弱さのある私たちの信仰の歩みにも目を留め、招いてくださっています。そして、「医者」として治療してくださるのです。
今朝の話はマタイ福音書、ルカ福音書にも記されていますが、ルカ福音書の結びはこのようになっています。
ルカ5:31b-32 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」イエス様は、罪人が悔い改め、イエス様に向き直って、イエス様に従って生きることを求めておられるのです。