2024年06月16日「見捨てられていた人が」

問い合わせ

日本キリスト改革派 川越教会のホームページへ戻る

見捨てられていた人が

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章40節~45節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

礼拝全体を録画した動画を公開しています。

Youtubeで直接視聴する

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。
それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいないところにおられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章40節~45節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>マルコ1:40-45 見捨てられていた人も
今日の癒しは重い皮膚病からの癒しです。「重い皮膚病」という言葉、以前は「らい病」と訳されていました。ですが、聖書に記されているこの病は、「らい病」と似ているけれど、ちょっと違う、ということが最近ではわかってきました。あるいは、らい病も含まれるけれど、もう少し広範囲の皮膚病が含まれる、ということかもしれません。ですから、新共同訳聖書では「重い皮膚病」という記述になっています。
そして「重い皮膚病」については、旧約聖書レビ記に詳細な規定があります。一部だけ読みます。
レビ記13:1-3「主はモーセとアロンに仰せになった。もし、皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その人を祭司アロンのところか彼の家系の祭司の一人のところに連れて行く。祭司はその人の皮膚の患部を調べる。患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。祭司は、調べた後その人に『あなたは汚れている』と言い渡す。」
この病にかかっているかどうか判断するのは祭司です。そして「重い皮膚病」と判定された人は、どうなるかと言えば、それもレビ記の規定にあります。
レビ13:45-46「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆(おお)い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
実は、レビ記11章~16章には「清いものと汚れたものに関する規定」が書かれていて、その中の一部に「重い皮膚病」の規定があります。ですから、「重い皮膚病」は、皮膚の病ではあっても、宗教的な「汚れ」の問題なのです。
旧約聖書の宗教的な「汚れ」、「清さ」については、今の私たちの感覚ではわかりにくいのですが、モーセ律法の中に、そういう規定があります。
この規定が、イエス様の時代までは生きていて、人々はこの規定に基づいて生活していたのです。

重い皮膚病のため、家族やユダヤ社会からも隔離され、辛い日々を送っていた気の毒な男性が、イエス様の評判を聞いて、やってきました。イエス様に病気をいやしていただきたい、という一心でした。そして彼は、イエスさまなら必ず癒せる!と信じていたのです。
彼は、一大決心をして、イエス様のおそば近くまでやってきて、ひざまずいて言いました。
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。
一見柔らかな物言いのように感じられるかもしれません。しかし、果たしてそうでしょうか?
「わたしを清くすることがおできになります」という言葉には、清められることを謙虚に求めながらも、イエス様は、私を癒す力を持っておられる、そしてイエス様なら癒してくださる、と信じた上での、強い言葉です。
この人の言葉を聞いて、イエス様は「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』」と言われました。イエス様はこの人を一目見て「はらわたがちぎれる思いに駆られ」心の底から、強く、憐れまれたのです。イエス様は手を差し伸べ、その手に触れ、言いました。「よろしい。清くなれ」と。別の翻訳では「私は望む。清くなれ」となっています。
上から目線で「よろしい。そうしよう」というようなことではありません。イエス様は、心から彼のいやしを望まれたのです。イエス様は、地上の歩みの中で、多くの癒しをなさいましたが、その都度このように、一人一人に寄り添ってくださっていたのです。
すると「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」つまり、癒されたのです。

その人を癒された後、イエス様は、この話を誰にも話さないようにと命じ、レビ記の規定に従って体を祭司に見せるようにとも言われました。
規定によれば、この病の判定は祭司の役割です。ですから、重い皮膚病が本当に治ったことを祭司に確認してもらい、規定に従って、犠牲をささげて神に感謝しなさい、と命じられたのです。
今まで彼は、安息日礼拝にも出席できず、神様との関係が断たれていましたから、まず最初に、神との関係を回復しなさい、ということです。
また、誰にも話さないように、というのは、人々が又押し寄せてくるのを恐れたからです。
人々が癒しや悪霊除去など、目先のことだけに関心を寄せてやってくるが、肝心のイエス様が語る神の国の福音を受け取ろうとしない態度に心を痛めておられたのです。
しかし彼は、癒された喜びのあまり、だまっていることができなくて、人々に言い広めてしまいました。本当にうれしかったのでしょう。気持ちはわかります。
でも、結局この後、イエス様は、癒しを求める人々に追い回されることになり、「もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」とあります。

今朝の説教は、重い皮膚病のために世の中から見捨てられていた人が、イエス様によってふたたび生きることができるようになった、という話しです。
彼は病に侵されてはいましたが、死んではいませんでした。しかし、生きているという実感はなかったのかもしれません。
その人がイエス様のおかげで、病が癒され、健康な人生を生きることができるようになり、同時に社会の中で、たくさんの人々と交わりをもって生きることも可能になりました。
しかし何より重要なことは、イエス様を通して神様との関係が回復したことです。
彼はイエス様に接して、イエス様の愛と憐みを経験し、イエス様を通して神の愛を知ったのです。
イエス様を知ること、信じることは、この地上でも、死んだ後も、神との交わりの中で生きることができるということです。こうして彼は、本当の意味で、生きる者となった。イエス様を信じることで、永遠の命へと続く恵みの中に入れられたのです。

私たちにとっても、体が保たれること、日々の生活、日常が守られることは大きな恵みです。
健康な命を全うすることは、私たちにとって大きな願いです。でも、そこにばかり目を向けてしまうと、最も大切で、必要なことを忘れてしまいます。イエス様は教えておられます。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

関連する説教を探す関連する説教を探す