2024年06月02日「イエスの評判が広がる」

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イエスの評判が広がる

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章21節~28節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章21節~28節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約> マルコ1:21-28 イエス様の評判広がる
イエス様は福音宣教の最初に、4人の漁師を弟子に選びました。
その後5人はガリラヤ湖の北西岸にあるカファルナウムという町に向かいました。この町にペトロとアンデレの家があったのです。その後しばらくの間、ここを拠点にしてガリラヤ伝道を始めたのです。
カファルナウムという名前は旧約聖書には一度も出てきていません。それで、バビロン捕囚の後に建てられた比較的新しい町だと考えられています。
19世紀にヨーロッパの探検家によって大規模な発掘調査が行われて、ガリラヤ湖の北側にカファルナウムの遺跡が発見されています。
一行はそのカファルナウムに到着し、安息(あんそく)日(び)にユダヤ教の会堂に行きました。もちろん、安息(あんそく)日(び)に神を礼拝するためにです。
人々は、安息日ごとにユダヤ教会堂に集まり、そこで祈り、律法学者が聖書を朗読し、朗読された聖書箇所の解き明かしがされます。律法学者は、律法を専門的に学んだ学者であり、それを人々の生活に解釈・適用する教師でした。彼らは聖書の権威と、それを解釈した先人の学者の権威に基づいて、聖書を教えたのです。

この日は、イエス様が旧約聖書を読み、解き明しをなさいました。22節には「人々はその教えに非常に驚いた。」とあります。人々は、イエス様の教えの何に驚いたのでしょうか?
イエス様の教えは、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
そう書かれていますが、具体的な教えの内容は記されていません。
ただ、その教えが、権威の点で律法学者のものとは大きく違っていた、異なっていたということが強調されています。
マルコ福音書は、イエス様の教えが、言葉が、どのように権威があるのか、力があるのか、ということを、この後に続く出来事でさらに明らかにしています。
人々がイエス様の教えに驚いているさなかに、事件が起こりました。突然会堂内で一人の男が叫び出したのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
それは汚れた霊に取りつかれた男性の叫びでした。汚れた霊というのが実際どんなものかはよくわかりません。しかし神に反対する存在、サタン的な力、ということは確かでしょう。
そして、そのような存在が、会堂内の誰よりもはっきりと、的確に、イエス様の正体を見抜いたのです。
汚れた霊は、イエス様のことを「神の聖者」だといい、そしておびえたのです。
イエス様はこの汚れた霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊は、大声をあげてその人から出て行ったのです。
イエス様の教えを前にしただけで、汚れた霊がおびえるほどの権威ある教え。
汚れた霊をしかり、「出て行け」と命じると、霊が完全に敗北しその言葉に従わざるを得ないほどの力。
「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」と人々が論じ合ったと記されています。

22節には「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とあり、27節には「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」とあります。
イエス様の教えには権威があり、言葉には力がある、ということを人々はこの日、ユダヤ教の会堂で体験したのです。
そして、イエス様の言葉によって悪霊や汚れた霊が力を失っていく状況は、イエス様のお働きによって、地上に神の国、神の支配が広がっていく、ということを示しているのです。

では、律法学者の教えとイエス様の教えはどう違うのでしょうか?
マルコがこの話全体から伝えてくれているように、イエス様の教えは単なる言葉や知識ではなく、現実が伴うということです。イエス様が汚れた霊に「黙れ、出ていけ」と言葉で命じたら、実際にその通りになったのです。では、それはどうしてでしょうか? 律法学者とイエス様の違いはどこにあるのか?

マタイ福音書28章18節でイエス様は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言っておられます。
イエス様は天地創造の時からおられ、神と共に全世界を造り、すべての権威をもっておられる父なる神の御子として、父なる神と等しい権威を持って、神の権威と力を持って地上に来られた神の御子です。
ですから、イエス様がお語りになることばは神の言葉であり、神の教えです。
律法を定める権威を持っておられる神がお語りになる言葉が、教えが、律法の下にいる律法学者の教え以上のものであるのは、いたって当然なこと。
また、律法学者は旧約聖書で預言された神の約束を語りますが、イエス様はご自身がその預言を成就する方、成し遂げる方です。
ですから、イエス様の教えは、律法学者たちとはまったく違う、絶対的な権威と力を持っているのです。
人々はイエス様の教えを「権威ある新しい教えだ」といいました。
「新しい教え」とは、時間的な新しさではなく、質的な新しさ、教えそのものの新しさを表現する言葉です。
人々はこの出来事をとおして、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエス様の言葉を理解すべきでした。
イエス様の言葉とお働きによって、地上に神の国が、神の恵みの支配が、形を表し始めたのです。
ですから、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。

ところで、わたちも毎週礼拝で、牧師から、聖書の解き明しを聞いています。もちろん、説教者は、神ご自身であるイエスさまとは違いますから、語るのは人の言葉です。そういう意味では律法学者と同じように普通の人間です。では、私たちの礼拝も当時のユダヤ教の礼拝と大差ないということでしょうか?
いいえ、実は大きな違いがあります。まず、語られている内容について違いがあります。
私たちの礼拝で語られる聖書の解き明しは、旧新約聖書から語られています。旧約預言を成就したイエス・キリストのことまでが語られているのです。イエス・キリストが旧約の約束を成就され、神の救いのご計画を成し遂げられた、そのことまでが記されている、新旧約聖書から、説教がなされているのです。
ですから、旧約聖書だけで礼拝した当時の礼拝とは大きな違いがあります。
さらにもう一つ違う点は。ペンテコステで聖霊が降り、聖霊の助け、働きがあるということです。
説教者の口を通して語られたその言葉は、キリストの霊である聖霊の働きによって、聞く者の心に届けられます。み言葉は、説教は、聖霊の働きによって聞く者の心に、魂に、神からのメッセージとして届けられます。ですから、私たちは毎週の礼拝で、生けるまことの神の言葉を受けているのです。
ですが、さらに重要なことは、神の言葉を神の言葉と信じて聞くという、聞く側の姿勢です。
神のことばは、信じて聞く私たちの中で、生きて働く言葉となるからです。神が語られたことは必ず実現すると、信じて、神のみことば、神の約束を受け取めて、信仰をもって今週も歩んでいきましょう。

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