試練を祝福に変える主イエス
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- 聖書 ヨハネによる福音書 9章1節~12節
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 わたしは、世にいる間、世の光である。」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 9章1節~12節
説教アウトライン
中心的主張点: たとえ、私たちに理解することができなくても、全能の憐れみ深い主はすべてのことを、ご自分の栄光とその民である私たちの究極的な祝福のために用いてくださる。
序説: 今日の聖書箇所を始めて説教するのではない。ここに今日にも特に必要なメッセージがある!
1、人生にわたって「不幸」と思われることが数え切れないほどある。聖書にも実例がたくさんある。
イ、新型コロナウィルスは言うまでもなく世界規模の「不幸」であったが、過去にも同類があった。
ロ、不正と戦争が人手によって起こるが、自然界における災害もある。
ハ、身近なものもあり、「ない」と言える人は一人もいないだろう。
2、これらに対して、どんな反応があるか。
イ、まずは、これらがあることについて嘆くことが当然である。
ロ、誰かの背にするのか?神様の背にするのか?
ハ、因果応報、カルマによる?裁き付けることがいかに人間くさいことだろうか。「天罰」だ!
二、ヨブ記の例、生まれつき目が見えない人の例。
3、弟子たちの質問とイエス様の答え、対応を確認しよう。
イ、要因を人の罪にあると考え、裁き付ける弟子の考えを主は正す。
ロ、癒しの奇跡の意味は複数ある。
ハ、生まれつきの盲目を癒す救い主がおいでになった!
4、全能にして憐れみ深い主がおられ、その清い目的のためにすべての運びを導く。
イ、私たちが味わう辛いことの裏面を見る場合もあれば、理解できない場合もある。
ロ、神はその愛する民のためにすべてを働かせて益としてくださることを「知っている」!
ハ、苦しみを認めて同情を持って関わりながら、主のわざを待ち望もう。
二、試練に出会うとき、信仰者に期待できる喜びがあることを信じよう。
ホ、私たちの観点の限界を受け止めて、主になお信頼する(ヨセフ物語:創世記37−50章)。
決論:新しい歌を授けてくださる主:「これらの荒廃の中で黄金を見出させてください。」