あなたも聖霊を受けます
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 使徒言行録 2章36節~42節
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 2章36節~42節
イエス様の昇天後に約束された聖霊が降りました。それは、五旬節と言われるユダヤ教のお祭りの日のこと。人々が集まっていると、「 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」のです。
聖霊が天から降ってきて、、一人一人の上にとどまりました。彼らはそれを肉眼で見たのです。実に不思議な光景でしたが、その場の人々は、「聖霊が降った」ということを実感として理解しました。
さらに、注目すべきことは、それがある特定の弟子だけの上に、ではなく、その場にいた弟子たち全員の上に、しかも一人一人の上にです。
その結果どうなったかというと、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」聖霊の力は、ここでは弟子たち一人一人に、他の国々のことばを語らせるという形で働いたのです。
この後、ペトロが説教をします。内容は、イエス様が復活後40日間にわたって、自分たちに教えてくださったこと。旧約聖書の預言がイエス様の十字架の死と復活によって成就したこと、イエス様は確かに約束のメシア、救い主であると、旧約聖書を引用しながら語ったのです。
ペトロの説教の最後の言葉はこうでした。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒2:36)
ペトロは、イエス様を十字架につけた責任を、その場にいる人々に突き付けました。
ペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」と言います。
「イエス様を十字架につけた責任」は、その後も歴史の中で様々な形で問われ続けました。ある者たちは、責任はユダヤ人にあると考えます。ナチスのホロコースト、ユダヤ人虐殺も、このことが理由の一つとされています。
しかし、私たちは36節の「あなたがた」を他人事として読むべきではありません。「あなたがた」の中に、「この私がいる」。イエス様の十字架はわたしの罪が赦されるためと信じるなら、イエス様を十字架にかけた責任は、この私にある。イエス様はわたしの罪を担って、私の罪のために十字架にかかってくださった。ここは、そう読むべきです。
実際、その場にいた人たちは、そのように理解したのです。ですから、説教を聞いた直後に「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。」
「大いに心を打たれ」と訳してあるもともとのギリシャ語は、「心を刺し貫かれ」というもっと強い言葉です。人々は、ペトロの説教で、イエス様の十字架と復活、昇天が、旧約聖書に預言されていたことの成就であり、イエス様こそ約束のメシア、救い主だと示され、理解しました。
しかし、長いこと待ち続けたメシア、救い主を、自分たちが殺してしまった、という事実に心刺し貫かれ、大きな衝撃を受けたのです。
それで彼らは言いました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と。
ペトロはここで、三つのことを彼らに命じました。
①悔い改めなさい。
聖書が教える「悔い改め」とは、神なしの人生から離れること。生きたまことの神がおられることを認める生き方へと、人生を方向転換することです。
②イエス・キリストの名によって洗礼を受けて、罪を赦していただきなさい。
「イエス・キリストの名による洗礼」「洗礼を受ける」とは、「イエス・キリストをわたしの神、罪からの救い主と信じます」という意思表明です。これからの人生、聖書の教えに従って、キリストに従って生きていきますという誓約でもあります。
③賜物として聖霊(神の霊)を受けます。
最後は「そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
「賜物」と訳されているギリシャ語は、「ただで」「無料で」とか「贈り物として」という意味です。
洗礼を受けると、神様からの贈り物として、ただで、無料で、聖霊(神の霊)を受けるのです。
パウロは、悔い改めてイエス・キリストを信じ洗礼を受け、罪を赦していただいたなら、「賜物として聖霊を受けます」と教えています。
ペンテコステの時、イエス様の弟子たちは神からの霊、聖霊を、神から受け取りました。この時には、「炎のような舌が分かれて一人一人の上にとどまった」ので、それがよくわかりました。同じように、私たちも洗礼を受けると、神の霊である聖霊を贈り物としていただきますが、それはペンテコステの時のように目に見える形ではありません。そういう意味では少しわかりにくいですね。
それでも、既に洗礼を受けておられる方は、確かに神の霊である聖霊が与えられています。聖霊の働きによって、クリスチャンの歩みは整えられ、変えられていきます。イエスが共におられるように、聖霊の助けがあります。
使徒パウロはガラテヤの教会宛の手紙の中で、こんな風に記しています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22-23)。私たちも、聖霊の働きによって、信仰の歩みがさらに豊かに整えられるよう、祈りましょう。
41-42節は、ペトロの具体的な勧めに対する人々の応答が記されています。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」(使徒2:41)
彼らは、ペトロの説教を聞いて心を刺し貫かれ、イエスを私の神、従うべき方と信じました。彼らは「もっとゆっくり考えて」とか、「後でまた聞くことにする」とは言わず、その場で信じたことを行動に移し、洗礼を受けたのです。「イエスを信じる」という決断は、先延ばしにしたら、再びその機会があるという保証はありません。先のことは私たちにはわかりません。まだまだ人生には時間があると考えるかもしれませんが、それは神様だけがご存知のこと。ですから、信仰の決断、洗礼の決断は先延ばしにしないことです!!
使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること。この4つのことを始めたことで、地上に最初の教会が誕生しました。教会とは、イエス・キリストを信じる者たちが集い、正しく聖書の言葉が語られ、イエス様を中心とした交わりがあり、聖餐の礼典が行われ、祈りを共有する場です。
この後、宣教によってキリストの福音が世界各地に広められ、信者が起こされて、教会が形成されます。そこで行われるのも、み言葉と礼典と交わりと祈りです。そして教会と共に、キリスト者一人一人と共に、聖霊の働きがあり、地上の神の国としての教会が広がっていくのです。