人間をとる漁師?
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- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 1章16節~20節
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
二人はすぐに網を捨てて従った。
また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章16節~20節
<説教要約> マルコ1:16-20 人間をとる漁師
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)
こうして開始されたイエス様の地上での働き。マルコ福音書によれば、イエス様はまず4人の弟子を選ばれました。それが今日の箇所16-20節です。
イエス様に選ばれた4人、2組の兄弟はガリラヤ湖で魚を捕って生活していたプロの漁師でした。
イエス様は初めに「シモンとシモンの兄弟アンデレ」にまず声をかけられました。彼らへの呼びかけは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉でした。シモンとアンデレは、「すぐに網を捨てて従った」と書かれています。
次に、漁を終えて網の手入れをしているヤコブとヨハネ兄弟にもお声をかけたのです。するとこの二人も、父と雇い人たちを船に残したまま、イエスの後について行ったのです。
ところで、この話は、マルコ福音書だけではなく。マタイ、ルカ福音書にも記されています。
それぞれを比較してみると、マタイ福音書とマルコ福音書の記事はほとんど同じです。
マタイ福音書は4章18-22節。ルカ福音書は5章1-11です。短い記事なのでぜひ読み比べてください。
マタイ福音書の記事は、マルコ福音書とほとんど同じです。福音書の中でこの記事が置かれている位置も、ほぼ共通しています。
一方で、ルカ福音書は独特です。まず記事の順番が違います。イエス様は4人の弟子を選ぶ記事の前に、イエス様が安息日にナザレの会堂で教えられた記事、汚れた霊に取りつかれた男や多くの病人のいやしの記事があり、その後4人の漁師を弟子にする記事が続いています。さらに、4人の漁師を弟子にするという記事は、ルカ福音書は少し詳しい前後関係が記されています。
ルカの記事を見ると、4人はまず、イエス様の語る神の国の福音を聞き、そのあとで、直接イエス様から声をかけられています。イエス様は人の心の中までご存じで、漁師でもないのに漁師以上に魚のいる場所がわかる方だということを知ったのです。ルカ福音書を読むと、4人は突然、何の準備もなく、イエス様から声をかけられたのではありません。4人はイエス様の教えを聞き、さらにイエス様のお力を見せられて驚き、イエス様の後についていきたい、従いたい、という思いにさせられたのです。
マルコ福音書では「二人はすぐに網を捨てて従った」(18節)、「 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」(20節)とあり、「すぐに」という言葉が目を引きます。
ですが、実は「すぐに」という言葉、マルコがよく使うギリシャ語なんです。
ギリシャ語レベルでこの言葉は、マタイで6回、ルカで10回、ヨハネで5回使われていますが、マルコではなんと18回。言いたいことは、マルコの記す「すぐに」というのがどの程度の「すぐ」なのかを考えないといけない。本当に「すぐ」が「直後」を指しているのかどうか、ということです。
そういう意味では、この箇所では、時間的に「すぐに」は中心テーマではないと思うのです。
一方で、3福音書に共通しているのは「網を捨てて従った」「舟と父親と(雇い人たち)を残してイエスに従った」ことであり、ルカの記事によれば「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」という所。
時間的なことはさておき、イエス様に従う、イエス様の弟子になるためには、自分が今まで手にしたものすべてをそのまま持って従うことはできない。どうしても捨てるべきものがある、ということです。
シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、彼らがイエスに従うと決めたとき、家族をどうするか。親や雇い人はどうなるのか。今までプロの漁師として生活してきたけれど、漁師という職業から離れなければならない、などなど、解決しなければならない事があり、またそれらを無責任に投げ出してもイエス様についていけばいい、ということではなかったはずです。
それでも、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」というイエス様の言葉を聞いて、彼らは「この方に従いたい!」、「従うなら今しかない」と感じたのです。
この世の様々な事柄を超越したイエス様の力に触れて、彼らはどうしてもイエス様の招きに応じたい、この機会を逃したくない、と思ったのです。
自分に向けられたイエス様の招きをどう聴き分け、受け止め、従うか。イエス様に招かれる機会は、人生の中で何度も訪れることはないでしょう。もしかしたら一度きりの機会かもしれません。
その機会を逃さずイエス様に従う決心をすること、そして決心をして従ったなら、最後まで従い通すこと。これが、ここでの中心的な教えです。
もちろん、長い人生の中で紆余曲折はあるでしょう。
イエス様を信じ、従う歩みから離れさせようとする、サタンの働きは常にあるし、様々な誘惑があります。
しかし、この世の様々な事柄は、招かれた神ご自身が、その時々で、解決の道を備えてくださるはずです。
イエス様に従う時、捨てるもの、残す物はそれぞれに異なりますが、大切なのは、イエス様の招きを受け止め、最後まで従い通す事です。
最後に「人間をとる漁師にしよう」という言葉を考えましょう。
イエス様は4人を弟子に迎えるに際して、彼らに「人間をとる漁師にしよう」と言われました。
具体的にはどういうことでしょうか? 彼らの働きによって、他の人々が神のもとへと導かれる、ということです。福音宣教には人が用いられます。人が「人間をとる漁師」として働くのです。
ここでイエス様は「あなたを人間をとる漁師にする」と言われました。
イエス様に従って、その後を歩む人は、その人自身が他の人をイエス様のもとへ導く者となるのです。
ルカ福音書では、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」です。イエス様は、弟子となった者を用いて、他の人をイエス様のもとへと導くものとする、と言っておられるのです。
12弟子はイエス様が示された神の愛を体験し、さらに十字架、復活、昇天の証人となり、イエス様が昇天された後はイエス様に代わって人々を神の国へ導くという働きが与えられました。
こういうことが、イエス様の昇天後、イエス様の弟子によって続いていきますが、そこに聖霊の助けがあります。こういうふうにして、先にイエス様の弟子となった人が用いられて、次々に人々がイエス様のもとへと導かれ、神の国が完成するのです。福音宣教は神の業、聖霊の働きですが、それを具体的に担うのは、弟子たちであり、そこに私たちも加えられているのです。
一人一人が生きている場で、イエス様を信じ、従って生きること、又神の愛と恵みを証しすることは、周囲の人々が神の国に入れるチャンスとなります。ですから、クリスチャンの歩み、人生は自分だけのものではなく、神の国の働きとしての意味を持つのです。このことを覚えて、私たちもクリスチャンとしての歩みを整えていきたいものです。