2020年08月02日「金銭以上に価値あるもの」

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金銭以上に価値あるもの

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 3章1節~10節

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ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 3章1節~10節

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<説教要約>
使徒言行録3章1-11節 (新約 P217)
説教 「金銭以上に価値あるもの」 

イエス様は地上におられた時、病人や体の不自由な人、社会から疎外されたり、疎まれている人に目を向け、癒しを与え、あるいは友となりました。このようなイエスの御業を通して、人々は心や体の癒しを受けました。しかし、それだけではありません。というよりそれ以上のものを手にしたのです。それは、イエスを通して神に目を向けることで、神の恵みに近づいたのです。
そして、今朝は、それと同じことが使徒ペトロとヨハネによって行われたという話です。

「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。」(使徒3:1)とあります。
ユダヤ教では、1日3回の祈り、朝9時、昼12時、午後3時に祈ることが定められていました。ペトロたちはイエスを信じてキリスト教徒になってからも、以前と同じように、毎日神殿で祈りをささげる生活を続けていました。この日は午後3時、夕方の祈りの時間に、ペトロとヨハネが一緒に連れ立って神殿に行ったのです。
すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。(使徒3:2) とありまして、ちょうどそのタイミングで、一人の男が何人かの人の手でそこに運ばれてきたのです。彼は、自分の力で立ち上がることも歩くこともできませんでした。ですから人の手で運ばれてきて、「美しの門」という名前の門のそばに置かれたのです。
歩くことができない彼は自活の手段を持ちませんでしたから、「神殿礼拝に来る人に施しを乞う」ということで生計を立てていたのです。それが彼の日課でした。ユダヤ教では人に施すという行為は神の前に善き業とされていましたから、神殿礼拝に来る人々は神殿献金と共に「施し」もしました。ですから、神殿の近くには施しをあてにしている人がたくさんいたのです。

彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。(使徒3:3)と書かれています。
この人は、いつものように通りかかった人に声を掛け「施し」を求めました。お金をくれる人、時には農作物や食ベ物をくれる人もいたかもしれません。しかし、今日出会ったこの二人は、いつも見慣れた神殿礼拝者とは少し違っていました。
二人は彼をじっと見つめ、そして「わたしたちを見なさい」と言ったのです。普通なら施しをするとさっと通り過ぎていくのに、この二人は彼の前に立ち止まったのです。二人は彼に目を留めてさらに「わたしたちを見なさい」と言ったのです。こんな人は初めてでした。ですから、「何かいいものがもらえるだろう」と大きな期待をもって二人を見上げました。ところが、返ってきた答えは、「わたしには金や銀はない」という言葉でした。
期待させておいて「金や銀はない」とは一体どういうことなのか。一瞬がっかりしたのですが、言葉はさらに続きました。そしてこう言ったのです。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と。そうして、彼の手を取って立ち上がらせようとするのですから驚きです。
4章22節を見ますと「このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。」とあります。また、3章2節には、男は生まれながらに足が不自由だったと記されています。ということは、生まれから40年間、彼は立ち上がったことも歩いたこともない。それがいきなり手を取られただけで、「立ち上がろう」、「立ち上がれる」と思えるでしょうか。
健康な人でも大きなけがや病気で2週間寝たきり状態が続けば、筋力が落ちてすぐに歩くことは難しいと言われています。ですから、40年間歩いたことのない彼がいきなり手を引かれただけで、その手にすがって立ち上がり、一歩踏み出して歩くのは、かなりの勇気が必要だったはずです。ではなぜ彼は勇気を振り絞って立ち上がったのでしょうか?
彼に勇気を与えたのは「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」というペトロの言葉でした。彼は、40年間エルサレム神殿のそばに座り続けていましたから、昨今エルサレムで起こった大きな出来事、ナザレの人イエス・キリストの十字架と死、そして復活のことも知っていたはずです。また、毎日神殿にやってくるペトロやヨハネやイエスの弟子たち。また彼らの仲間に加わった多くの人々のことも知っていました。そういう中で、今日、ペトロとヨハネが彼の前に立ち止まり、彼をじっと見つめて、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って、彼の手を引いてくれたのです。彼は、この時「ナザレの人イエス・キリストの名」によりすがって、勇気を振り絞り、両足に力を入れ、地に足をつけて、引かれる手に応じたのです。
勇気を出して一歩踏み出してみると、彼は本当に立つことができました。
40年の間、立ち上がったことがなく、立ち方も知らなかったのに、彼は確かに立つことができたのです。
その時の彼の大きな喜びの様子が、8節に記されています。
躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。(使徒3:8)
彼は、もちろん、自分の手を引いてくれたペトロとヨハネに感謝したことでしょう。しかし、彼は知っていました。この癒しは、ペトロとヨハネの力によるのではなく、「ナザレの人イエス・キリストの名」、ナザレの人イエス・キリストの力、神の力によるということを。ですから、彼は、喜び踊り回って神を賛美し、その後神に感謝の祈りをささげるために二人と一緒に境内に入って行ったのです。

9節10節には、周囲にいた人々の反応が記されています。
民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。(使徒3:9-10)
この人は、毎日同じ場所、「美しい門」のそばにいたので、民衆は彼の存在をよく知っていました。いつも彼がその場所に、あたかも物のように置かれていたことを知っていた人々は、その人が癒されて、飛び回り、神を賛美している様子に驚きを隠せませんでした。「われを忘れるほど驚いた」と訳されている言葉、茫然自失という言葉で、驚きの大きさを表しています。

では、この人がその日手にしたものとは何だったのでしょうか? 
最初彼は、いつもの通り、通りすがりの人に金品を恵んでもらおうとして、ペトロとヨハネに声を掛けました。するとペトロは、彼に目を止めじっと彼を見つめて「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」と言い、彼の手を取って彼を立ち上がらせたのです。彼の足はその場で癒されました。つまり、体の癒し、健康の回復が与えられたのです。金品は使えばなくなりますが、体の健康はそうではありません。健康であれば自分で動いて自活することができます。ですから、健康は金品以上のものです。でも癒されても、人はいつか死を迎えます。肉体は永遠ではありません。
実は、この人がここで手にしたものは、体の健康以上のものでした。ペトロは、この癒しが「ナザレの人イエス・キリストの名」、ナザレのイエス・キリストの力、神の力によると言い、この人もそれを信じたので癒しが与えられたのです。
つまり、ここでこの人が得たものは、ナザレのイエス・キリストの力、神の力への信頼。キリストを通して神を信じる信仰だったのです。この信仰こそが、肉体の滅びを超越して永遠の命へと至るもの。これこそが、金銭以上に価値あるものだということを、今朝私たちも覚えたいと思います。

ところで、旧約聖書イザヤ書にこのように記されています。
イザヤ35:4-6 「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。』そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。」

見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。
これは、神が私たちの救いのために地上に来られる時のしるしだ、という預言です。そして実際に、イエス・キリストを通してこの預言が実現したのです。

この日、ペトロとヨハネは、この人の前を通り過ぎず、彼をじっと見つめました。
今、同じように、神の目が、キリストの眼差しが、私たち一人一人に注がれています。
この神の眼差しは、私たちをご自身の恵みの中に導き入れるためのものであり、またご自身の恵みの中で私たちを生かすためのものです。
ここにいらっしゃる皆様方も、今自分に注がれている神の眼差しをしっかり受け止め、差し出されている救いの手を握りしめて頂きたいのです。

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