2024年03月17日「十字架のうえに」

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聖句のアイコン聖書の言葉

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 15章33節~41節

原稿のアイコンメッセージ

イエスがエルサレムに入場されるとき、人々は自分の服を道に敷き「ホサナ、ホサナ」と叫んでイエスを歓迎しました。しかし、逮捕され、裁かれ、死刑判決を受け、十字架に向かうとき、イエスに味方する者はいませんでした。民衆も弟子たちもイエスを見捨てました。こうしてイエスは、お一人で、十字架へと向かわれたのです。

では、十字架のとき、イエスと神との関係はどうだったのでしょうか。
マルコ福音書1章11節には「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたと記されています。御子イエスは父なる神に愛され親しい関係にありました。ですが十字架のときはどうだったのでしょうか。
イエスは十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と叫びました。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:34)とあります。
これは詩編22編2節の言葉です。イエスはこの詩篇選んで、十字架の上で叫ばれたのです。
詩篇22篇をもう少し詳しく読みたいと思います。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
詩篇の作者は、大きな苦しみの中にいて、神に助けを求めても神はなかなか答えてくださらない。その中で神に見放され、見捨てられたように感じています。ですが、この後詩編はこのように続いています。
22:4~6 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
けれど思い返してみれば、自分たちの祖先は、神に助けを求めたときには必ず救い出され、裏切られたことはなかった。だから今回も神は絶対に自分をお見捨てにはならないはずだ、と思い直しています。この後も22節までは苦しい訴えが続きますが、23節以下は神への賛美に変わります。
そして最後はこうです。
22:31-32わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え/主のことを来るべき代(よ)に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。
つまりこの詩篇の作者は、実際には神に見捨てられてはいなかったのです。苦しみの中で神を見上げ、神により頼み、助けを求め、救いを得たのです。神はどのような苦難の中でも、必ず私を救い出してくださる。詩篇22篇はそういう詩編です。
では、この22篇2節の言葉を十字架上で叫ばれたイエスは、どうだったのでしょうか? この詩人のように、十字架の苦しみの中で、神に見捨てられたように感じたけれども、実際は、見捨てられなかったのでしょうか? 新約聖書を2か所ほど見たいと思います。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8:32)これはパウロの言葉ですが、パウロの理解によるなら、父なる神が、御子を死に渡した、死の中に放棄した、見捨てた、と言っています。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)どちらも神に見捨てられたということです。イエスは十字架の上で、詩編22編の言葉を叫ばれましたが、詩編22編とは違います。十字架の上で神に捨てられたのです。
十字架上での苦しみは、肉体への大きな苦痛が伴いますから、私たちはそちらに思いが集中しがちです。でも、十字架の苦痛が体の苦しみだけだったら、例えばキリスト教迫害下のクリスチャンも十字架刑になりましたよね。もちろん想像を絶するほどの痛み、苦しみであったことでしょう。でも、迫害によって十字架上で死んだクリスチャンたちは、苦痛の中でもキリストと共にあり、神の守りの中にあったはずです。
ですが、イエスはそうではなかった。本当に「神に見捨てられる」という苦しみ、恐怖を体験されたのです。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉は、そのまま受け止めるべき叫びなのです。十字架上でのイエスは、人々から見捨てられただけでなく、実に、神から見捨てられたのだ、ということを私たちはしっかりと受け止める必要があります。
なぜなら、これは、本当なら、私たちが受けるべき神の裁きだからです。

一瞬にして罪と、暗闇と、死を征服することがおできになる、そういう力を持った神のみ子が、このような苦しい戦いをしなければならなかったのは、人類の罪の問題を解決するためであり、罪の赦しを勝ち取る為でした。そのために、イエスは、私たちと同じ、弱さを持った人間となって、十字架上で神に捨てられ、裁かれ、罪の贖いを成し遂げてくださったのです。
このキリストの十字架のおかげで、私たちは罪の赦しを得て、生きている今も、死の時も、死んだ後も、キリストに結ばれて神の子であり、神に見捨てられるという究極の絶望を経験する必要が全くなくなったのです。ヨハネ福音書は、主イエスの十字架の意味をこのように記しています。
ヨハネ3:16 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

しかし、今回もう少し別の視点でこの箇所を注解している文章に出会いましたので、それもご紹介します。短い文章なのでお読みします。
「ここで捨てた神と捨てられたイエスとは一体であり、同一の肢体です。(父・子・聖霊の神はそれぞれに別人格を持ちつつ、お一人の神だという、神の三位一体のことを言っています。)ですから、神がイエスを捨てることは、ある意味自分が自分を捨てること、自己放棄、自己犠牲ということにもなります。
罪人を愛して赦すときには、赦す者が自己犠牲を払うのだという、その自己犠牲の表現様式が、神がイエスを捨てること、父が子を捨てることになります。」
神の自己犠牲によって、わたしたちに救いの道が与えられた、という見方です。私たちは、ここに神の大いなる愛の御業、愛のメッセージを見出だすことができます。

このようにして、主イエスは、十字架の上で息を引き取られました。このとき「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂ける」という象徴的な出来事が起こりました。これからはもう、誰でも、主イエスを信じる信仰によって、神に近づくことができる。動物犠牲によって罪の赦しを祈らなくても、イエスの十字架の贖いをもって神を礼拝し、神との交わりに生きることができる、というメッセージです。これこそが、新約の新しい時代の幕開けです。ローマの百人隊長は言いました、「本当に、この人は神の子だった」と。
このように、人々はイエスの十字架から目を背けました。ですが、わたしたちは、キリストの十字架から目を背けることがあってはなりません。なぜなら、この十字架は、本当ならわたしが負うべき苦しみであるからです。十字架を仰ぎ見つつ、十字架を通して示された神の愛の深さを覚えたいのです。

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