2024年03月03日「神の国を宣べ伝える」

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神の国を宣べ伝える

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 28章17節~31節

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三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。
ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。
しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。
だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」
すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」
そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。
ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。
彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』
だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、
全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 28章17節~31節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約> 使徒言行録28章17-31節「 神の国を宣べ伝える 」 
いよいよ今日が使徒言行録の説教、最後、28章17-31節ですが、三つに分けてみていきます。
1.28章17-31節 パウロが困難の末にローマまでやってきたのは、もちろん福音宣教が目的でした。
しかし、状況としては、エルサレム神殿でユダヤ人に迫害され捕らえられ、その後ローマ側の裁判にかけられ…、といういきさつがあってのこと。自ら計画し、伝道旅行という形でローマに到着しわけではありません。パウロがそのいきさつを自分の言葉で説明しているのが17節後半から20節です。
この説明の中で、パウロは、ユダヤ人である同胞たちに悪意を持って、彼らを告発するために来たのではないことを伝えました。ではどうして今、ローマまで来たのか? その理由について、パウロは説明します。
28:20「 だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」
ここで「イスラエルが希望していること」とありますが、具体的には「復活の希望」のことです。
パウロは死後の復活を信じ、それを「希望」といいます。これはユダヤ教の中ではファリサイ派の人々が同じ理解です。しかしパウロが事実として伝えるのは「イエス・キリストの復活」であり、彼に結ばれた「信仰者たちの復活」です。ですからそういう意味では、ファリサイ派の人々の「復活信仰」とは異なります。
このようなパウロの説明に対して、ローマのユダヤ人たちの反応は意外なものでした。彼らは、本国のユダヤ人たちから何の情報も得ていなかったのです。書面も受け取っていないし、パウロについての悪い話も聞いていないというのですから。しかし、彼らはパウロが宣べ伝えるキリスト教について、ここでは「この分派」という言い方をしていますが、直接パウロから話を聞きたいと言います。
これは大切です。物事を、特に大切なことは、人のうわさやまた聞きで判断すべきでない、自分の耳で聞き、考えることが大切です。

2.28章32-28節 それでパウロは、ユダヤ人たちが順番にパウロの説明を聞く機会を提供しました。パウロは熱心に、朝から晩まで、説明を続けました。旧約聖書から、神の国とメシア・イエスについて説明し、神の国について力強く語りました。パウロが願っていたローマでの伝道がはじまったのです。
ところが、結果は思わしくありません。「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。」ですが、ここで「受け入れた」とは、信じて信仰を持った、ということではありません。とりあえず説得された、パウロの言葉は真実だろうと思ったということで、信仰を持つ以前の状況です。でも、それでも、説得された人が起こされたことは、信仰へと導かれる望みはあります。
彼らが意見の一致を見ないまま、パウロのもとを立ち去ろうとしたときに、パウロはイザヤ書の言葉を彼らに告げています。
26-27節『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』
これはイザヤ書6:9-10の引用ですが、神は逆説で語っています。神の御心は、人々が神の言葉、福音をよく聞いて、理解し、よく見て悟ること。心を柔らかく、耳を鋭く、目を明らかにして、心で福音を理解し、悔い改めて癒されることです。しかし現実はその逆で、当時は預言者イザヤの言葉を、パウロの時代はパウロの言葉を、そして今の時代は、牧師が語る聖書の福音を、見ず、聞かず、理解しないものが多い。これは神の嘆きの言葉です。

福音書に「種まきのたとえ」という、有名なたとえがありますが、ご存じでしょうか。イエスは、種まきを譬えにして、4つのパターンを語ります。
種が道端に落ちた種、石のごろごろしている石地に落ちた種、茨の茂る中に落ちた種、よい土地に落ちた種、それぞれがどうなるかを語ります。
道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、鳥に食べられ、芽を出すことはありません。
石の多い土地に落ちた種は、石ころだらけで土が少ないので、芽を出してもすぐに枯れてしまいます。
茨に覆われた土地に落ちた種は、日が当たらず、養分も取れず、芽を出しても成長できません。
しかし、よく耕され、肥料がまかれたよい土地に落ちた種は、芽を出し、葉が出て成長し、花が咲き、やがてそれが実って、百倍の実りとなる、という話です。
実はルカ福音書では、このたとえ話の直後にも、省略版ですが、同じイザヤ書の引用があります。
ルカ8:9-10 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。
イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」
そしてイエスの解説はこうです。
種は神のみ言葉、土地は聞く人の心の状態です。神の言葉、福音をはじめから聞く気のない人がいます。その人に語られた言葉は、すぐにも奪い取られ無駄になります。それが道端に落ちた種です。
石地に落ちた種とは、最初は喜んで聞いていますが、その言葉がその人の中で定着しないで、何か困難な状況になるとすぐにそこから離れてしまう、そういう人のこと。
茨に落ちた種とは、人生の思い煩いや困難なことに遭遇したり、あるいはこの世の富や欲望に心が向いてしまって、結局実りまで行かない人のこと。
最後の良い土地に落ちた種とは、み言葉を心で受け止め、そのように生きる努力をする人。ルカは「忍耐して実を結ぶ人」と表現しています。ルカ福音書の方で、イエスが最後のまとめとして語られたのは、
ルカ8:18  「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」
使徒言行録でパウロが言いたいことも同じです。神からの呼びかけを受けたなら、心を柔らかくしてみ言葉を聞き、神のもとへ立ち帰ればいいのです。
旧約時代、神の選びの民はユダヤ民族でしたが、今や神の言葉は異邦人にも向けられています。もはやユダヤ人とか、異邦人とか、民族的な区別はありません。ガラテヤ3:26-28をお読みください。

3.28章30-31節 パウロはこの後2年間の軟禁状態を経て自由の身になります。軟禁されている2年間に、エルサレムのユダヤ教側から何のアクションもなかったので、無罪放免になったのです。でも軟禁状態の間、パウロは獄中で神の国の福音を宣べ伝えましたし、「獄中書簡」と言われる手紙(エフェソ、フィリピ、コロサイ、フィレモン)も記して、伝道と牧会を継続しています。
この後のパウロの足取りや、彼の死にざまについては、聖書には何も記されていません。しかし、パウロは満足して人生を閉じたであろうことが、獄中書簡の言葉から想像されます。フィリピ1:20-21をお読みください。

最後に、ここまで使徒言行録を学んできてわかることは、福音宣教は神の業で聖霊の主導ですが、その働きに人が用いられるということ。そして福音宣教と信仰の歩み、どちらにも必要なことは、「忍耐」です。
私たちも、神の言葉にとどまり、課題に向き合い、人生のゴールを見据えて、忍耐して、一歩ずつ歩みを進めていきましょう。

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