2024年02月04日「互いに愛し合いなさい」
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互いに愛し合いなさい
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- 木村恭子 牧師
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ヨハネによる福音書 15章1節~17節
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聖書の言葉
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 15章1節~17節
メッセージ
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説教要約 ヨハネ15:1-17「 わたしにつながっていなさい 」
本日は、2024年の川越教会のテーマと聖句について考えます。
2024年の川越教会のテーマは「主にあって共につながろう」、テーマ聖句は、ヨハネ福音書15章5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」です。
聖書テキストは、テーマ聖句を含むヨハネ福音書15章1-17節です。全体を3つに分けてみていきます。
まず、1-6節は、「ぶどうの木のたとえ」です。
主イエスは、父なる神と、ご自身、そして主の弟子たちの関係を「ぶどうの木」にたとえて話しだしました。
イエス・キリストを救い主と信じ、主に従って歩んでいる弟子たちへの教えですが、これは信仰をもって歩もうと決心し、教会生活を続けている、私たちへの教えでもあります。
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
主イエスがぶどうの木、父なる神はぶどうの木の世話をする農夫。そしてイエスの弟子たちはぶどうの枝、という設定です。2節では、主イエスの弟子だと自認していても、実を結ばないなら、父なる神がその枝を取り除くという警告があり、一方では弟子訓練としての神の手入れ(剪定)があると教えています。
実際、イエスを信じ従っているキリスト者であっても、様々な苦難がありますが、その目的は、ふるいにかけるのではなく、その人の歩みに豊かな実りが与えられるため、と教えます。
3節には「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とあり、イエスご自身によって、すでに清められている、聖別されて選びの中に置かれていることが教えられています。
4節以下では、「私につながっていなさい」というイエスの言葉が展開されています。イエスにつながっているなら、イエスもつながっていてくださる。イエスにつながっていなければ実を結ぶことはできない。
5節では、人がイエスに、イエスがその人に、と両方向でつながっていることで、「その人は豊かに実を結ぶ」。5節後半では、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と言い、イエスから離れた弟子たちの状況を語り、さらに6節では、イエスにつながっていない人、イエスから離れてしまった人への神の裁きが語られています。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
1-6節で「つながっている」「つながっていない」という言葉、つまり「つながる」という言葉が何度も出ていますが、2節を除いた「つながる」という言葉はみな「メノー」というギリシャ語で、「とどまる」という意味の言葉です。弟子たちにとって大切なことは、ぶどうの木である「イエスにとどまること」です。
7節からは、譬えを用いた話ではなく、具体的な話になります。
私たちがイエスにとどまって、イエスの言葉、イエスの福音が私たちのうちにあるなら、「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」と教えます。当然ながら、ここでの「望むもの」とは、福音と無関係な人間的な願いのことではありません。イエスにとどまり、福音にとどまっているイエスの弟子たちが望むのは、イエスの言葉がさらに多くの人に伝えられ、神の福音が世界に広がっていくことではないでしょうか? つまり、具体的な福音の進展、教会の成長、神の国が地上に広がっていくことを願う弟子たちの願いを、神はかなえてくださる。そして、これが、今まで言われていた「豊かな実を結ぶ」ということです。
さらにこのことは、私たちの栄光ではなく、私の父、つまり神の栄光となるのです。
9節からは「わたしの愛にとどまりなさい」というメッセージです。
10節では、イエスの掟を守ることが、イエスの愛にとどまること。12節では、イエスの掟とは互いに愛し合うことだと教えられています。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
弟子たちが、互いに愛し合うこと。それも、イエスが弟子たちを愛したのと同じように。それがイエスの掟だと教えています。
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
弟子たちが互いに愛し合うことは、イエスの喜びとわたしたちの喜びが一つになること、と言い換えてもいいでしょう。
「互いに愛し合いなさい」というイエスの掟に従って歩む弟子たちを、イエスは僕でなはく、友と呼んでくださいます。
16節には「わたしがあなたがたを任命したのである」とあります。イエスご自身が弟子たちを選び、弟子たちの働きが実を結び、さらにその実が残る、そういう働きをするもの、できる者としてイエスは弟子たちを任命したのです。ですから、わたしたちは、自分の働きが小さいとか、何もできないとか、そんなことを考える必要はありません。主イエスは、わたしたちの力をご存じのうえで、わたしたちを選び、働きへと遣わしておられるということです。神は小さき者をお用いになって、大きな神の業をなさるのです。ですから、わたしたちはそれぞれ、与えられている器で最善を尽くし、神と隣人に、又福音宣教に仕えて行けばいいのです。
それでは、ここまでの話をもう一度確認いたします。
(1)ぶどうの木にとどまる。
ぶどうの木であるイエスに、具体的にはイエスの言葉、福音に、しっかりとどまっていること。
具体的には、教会生活、特に礼拝を中心にして、み言葉を大切に歩み続けることが勧められています。
時に、神の訓練としての試練があっても、それを豊かな実りのための試練と心得て、落胆しないことが求められています。イエスに、イエスの福音にとどまること、これが、豊かな実りへの唯一の道です。
(2)永遠に残る実を
イエスの言葉に、福音にとどまり続けることで、わたしたちの願いである福音の進展、教会の成長、神の国が地上に広がっていく。神はわたしたちのそういう願いを神がかなえてくださると、イエスは約束しておられます。
(3)互いに愛し合いなさい
最後は、今日の説教題でもある「互いに愛し合いなさい」です。イエスは旧約律法を二つにまとめて「神を愛すること」と「隣人を愛すること」と教えておられます。ですが、ここでは特にイエスの弟子たちに対して「互いに愛し合いなさい」と言い、それがイエスの愛にとどまっていることだ、と教えています。
そして最後に、ここまでの教えを、今年のテーマ「主にあって、共につながろう」との関係で考えたいと思います。
昨年のテーマは「主にあって喜び、祈ろう」でしたから、前半の「主にあって」までは今年も同じです。
昨年はイエスにとどまることで喜び、祈っていこうというテーマでした。
ですが、今年は、「主にあって」の後が違うんですね。それぞれが「イエスにつながって」「イエスにとどまって」、そしてお互いも「共につながろう」なんです。一人一人が「イエスにつながる」、「イエスにとどまる」と同時に、お互いもつながっていこう、そういうテーマです。
「共につながろう」は、まず川越教会の現住陪餐会員、あるいは礼拝に出席している方々が対象です。現住陪餐会員もだんだん年齢が進んで、礼拝出席が難しくなる方も出てくる。ですが、そういう方々も含めて一緒に、共につながっていこう。一緒に信仰の歩みを続けていこう。共に天国までの歩みを歩み通そう、というのがこのテーマの意図です。
そのためには、今まで以上につながる努力が必要です。Zoomでの礼拝参加、訪問、℡、手紙、メールなど、いろんな手段を用いて近況を共有し、励まし合い、祈り合うなど、み言葉を届けることなどなど。できることはいろいろあります。それをみんなでやっていきましょう。
さらに、それを現住陪餐会員だけにとどめることなく、少しずつ広げていくこと。これが福音宣教、伝道につながっていきます。
イエスにとどまるとは、イエスの言葉、福音にとどまるということ、さらにはイエスの愛にとどまることです。ですから、伝道は、イエスの言葉、福音を届けること、そしてイエスの愛の中へと招き入れることです。
今年そういうことをしっかり意識して、できること、やるべきことをみんなで、一緒にやっていきたいと思います。そういう中でイエスは、わたしたちを用いて、わたしたちの教会に豊かな実りを与えてくださると信じます。