2024年01月21日「パウロの切なる願い」
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パウロの切なる願い
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- 木村恭子 牧師
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使徒言行録 26章24節~32節
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聖書の言葉
パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」
パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。
王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」
アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」
パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」
そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。
アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 26章24節~32節
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<説教要約> 2023/1/21 使徒言行録26:24-32 パウロの切なる願い
聖書は使徒言行録26章の最後の段落、24-32節を朗読しましたが、今日の話、内容的には25章13節から26節の最後までの全部です。
カイサリアに着任したローマ総督フェストゥスを表敬訪問するため、当時ユダヤを治めていたアグリッパと妻のベルニケがユダヤからカイサリアにやってきました。目的は新たに着任したローマ総督フェストゥスを表敬訪問すること。そのときにフェストゥスは、パウロの話を持ち出したのです。するとアグリッパは「わたしも、その男の言うことを聞いてみたいと思います」といいまして、翌日パウロが引き出されて、弁明することになったのです。
25:23「翌日、アグリッパとベルニケが盛装して到着し、千人隊長たちや町のおもだった人々と共に謁見室に入ると、フェストゥスの命令でパウロが引き出された。」ここにはパウロを告発したユダヤ人たちはいません。アグリッパと妻のベルニケ、千人隊長や軍関係者、さらにはカイサリアの主だった人々、つまり異邦人が多かったことがわかります。ですから、ここでの弁明は、パウロがイエス・キリストを信じるようになるまでと、イエスを信じてからのこと、つまり自分の信仰を証しする機会、そしてキリストの福音を語る機会になりました。
26:1アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。 パウロは、アグリッパの前で弁明できるのは幸いであること、さらに忍耐をもって話を聞いて欲しい、と願います。
そしてまず、彼がもともとは熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教の強烈な迫害者だったことを告白します。パウロはユダヤ教の中でも最も厳格なファリサイ派に属し、若手の有力メンバーでした。パウロは自分がナザレ人イエスの名に反対していたこと、信じる者たちを迫害し、外国にまで捕えに行ったことなどを語りました。それが26章11節まで。
さらに26章12-18節では、キリスト教徒を迫害するために向かったダマスコ途上で、復活のイエスの声を聞いた話、自分がイエスに出会って回心した出来事を語っています。
パウロはダマスコ途上で復活のイエスに出会い、自分が迫害しているイエスこそが、旧約聖書で預言されているメシア、救い主であることを知ったこと。イエスは彼に「起き上がれ。自分の足で立て」と命じ、「あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす」と、パウロに働きが与えられたことを語りました。
パウロは、天から示されたことに従って、「悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするように」と述べ伝えているのだ、と弁明したのです。
24節からは、最初にお読みした所です。パウロの話がいよいよ、福音の中心、アグリッパへの信仰の勧めに差し掛かろうとしたタイミングで、フェストゥスが話を遮りました。
使26:24bフェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」
旧約聖書の約束、メシア預言を知らず、唯一まことの神を信じていない、ローマ総督のフェストゥスにとって、ここまでのパウロの話は、全く受け入れる余地のない話であったのでしょう。人間の常識で判断するなら、復活したイエスが現れて語るなど、受け入れられるはずはありません。「お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」と叫びました。
フェストゥスはローマの政治家であり高官です。この地位に上るため、彼はローマ法をはじめ多くの勉強としてきたエリートです。ですから自分の常識的な判断には自信がりました。その常識的な判断に照らして、お前は非常識だ、頭がおかしい! といったのです。
また、一方でこうも言えるでしょう。彼は福音に心を開く用意がなかった、ということでもあります。
しかしパウロは、総督の言葉に屈せず、アグリッパに真正面から問います。
26:27 「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」
「預言者たちを信じておられますか。」は、旧約聖書を信じているか? 唯一まことの神の存在を信じているか? ユダヤ教の信仰を持っているか?という問いです。
そして旧約預言を信じるなら、イエスをメシヤと信じることは当然なのだ、と言いたいのです。
ユダヤの王であるアグリッパはここで「信じていない」とは言えません。そんなことを言えば、ユダヤ教徒たちの怒りを買ってしまいますから。ですからアグリッパは、パウロの問いに答えず
26:28「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」と言いのがれました。
パウロはここで、アグリッパに信仰の決断とその表明を迫ったのですが、彼は言葉の多少、福音を聞く時間の長さを口実に、信仰の決断と表明を避けました。
この後の29節。
26:29 パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」これがパウロの切なる願いです。
まとめ
パウロの切なる願いは、福音を聞いたすべての人がパウロのようになると。福音を聞いたすべての人が、悔い改めてイエスを主と信じ、信仰を表明し、神に従うことです。
ですが、フェストゥスの例を見てもわかるように、神の言葉、福音は、人間の常識的な判断で納得し、信じることはできないのです。実際、神の言葉は、人間の常識の外から聞こえてくるからです。
「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」これがパウロの切なる願いですが、この願いは、パウロだけでなく、福音宣教者のすべての願いであり、神の言葉を語る私の切なる願いでもあります。
アグリッパはパウロの質問を言い逃れるために、「短い時間で」と、福音を聞く時間、量を問題にしました。もちろん、イエスを信じる信仰へと導かれるためには、少なくとも福音を聞くことが必要です。キリスト教信仰は盲信ではなく、言葉の宗教だからです。しかし、一方で、どれだけ聖書を学んだか、どれだけ礼拝に出席したか、どれだけ聖書のメッセージを聞いたかというような、時間や量は問題でもありません。聞いた福音を、メッセージを、受け止め、受け入れ、信じるかどうか、それが問題です。
求められているのは、常識的な判断ではありません。心を開いて、福音を受け入れるという方向性と決断が必要なのです。
そのことがわかる聖書箇所を二か所挙げておきます。
まず、ルカ23:41-43
ここは、イエスと一緒に十字架にかかった犯罪人の一人が、死の間際にイエスを信じた、という記事です。これこそ、時間の短さは問題ではない、という実例です。
さらにもう一か所 ヨハ 20:27
こちらは、イエスの12弟子の一人であるトマスに復活後のイエスがおかけになった言葉です。
トマスはイエスのおそば近くで何年もの間働き、訓練を受けた弟子。イエスの教えを直接聞いてきた弟子です。しかし、彼はイエスの復活を信じられませんでした。イエスがトマスに現れて、十字架の傷を見て初めて信じることができたのです。これは先ほどの犯罪人とは逆の意味で、信仰は時間の長さが問題ではない、ということを教えてくれています。
私も今朝、この説教を聞いておられる全ての人に、特に求道の友に、お伝えいたします。
使徒26:29 「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」
そして最後にもう一か所聖書を引用して終わります。
ローマの信徒への手紙10:8b-10
「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 アーメン