2024年01月07日「共に礼拝する恵み」
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共に礼拝する恵み
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- 木村恭子 牧師
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詩編 133章1節~3節
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聖書の言葉
【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
詩編 133章1節~3節
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今日は2024年最初の礼拝です。今朝は、「共に礼拝する恵み」について考えてみましょう。
133:1「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」
最初にこの詩編の1節を読んだ時、私は幼い兄弟が仲睦まじく座っている後ろ姿、肉親の兄と弟のほほえ
ましい情景が浮かんできました。兄が弟を思いやり、弟は兄を頼りにして兄の隣で安心して座っている、そんな情景です。
しかしこの詩編、実は肉親の兄弟の姿ではなく、共に礼拝する神の家族の姿を描いているのです。
最初に「都に上る歌、ダビデの詩」とありますので、ダビデ王の時代に、神の都エルサレム、それも、その中心である神の神殿で、ともに神を礼拝人々の上に、神の恵みがあり、喜びがあるという詩、と考えられるでしょう。ところが、この詩編で使われている言葉には、捕囚期以後の特色がみられるそうです。
ですから実際にはもっと後の時代のこと、預言者を通して語られる神の言葉に従わず、神の裁きによって、神殿が破壊され、主だった人々は捕囚の民としてバビロンへ連れて行かれるという、バビロン捕囚後の詩編のようです。
バビロンへうつされた人々は、異教の地で心細い思いをし、そこで初めてまことの神を思い、悔い改め、そしてかつての神殿礼拝の恵みを懐かしむことになります。
異教の地で、かつての神殿礼拝を思って捕囚にあった人が読んだ詩篇がありますので記します。
詩篇137篇1-4 「バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。」
彼は今、異郷の地バビロンで、エルサレム神殿の礼拝風景を思いながら、一人川のほとりに座って、神を礼拝しています。
かつての神殿は、祭司の導きがあり、竪琴や笛のリードがあり、晴れやかに神を賛美しました。しかし、この地には神殿はありません。たった一人で、あるいは数人が集まって、川のほとりで静かに神を礼拝するのが精一杯でした。
さらには、自分たちを捕らえた人々が、彼らの楽しみのために琴を弾き、歌うことを要求します。しかし神を賛美するための楽器を使って、彼らの楽しみのために歌うなど、できるわけがない。だから彼は琴を柳の木々にかけて、そしてシオン、つまりエルサレムを思い、神殿での礼拝を思い、私たちは泣いた!という実に悲しい詩篇です。
バビロン捕囚は、イスラエルの民が神を正しく礼拝せず、偶像へと心を向けたため。又隣人への愛を示さず、自分たちの楽しみだけを追い求めたため、神からの裁きでした。
彼らはイスラエルにいるときには、神殿での礼拝が恵みであり、感謝すべきことだということを、彼らは理解できなかったのです。というよりは、形だけの礼拝をささげていた。あるいはそれさえ重荷に感じていたかもしれません。けれどバビロン捕囚という苦しみを通して、彼らは悔い改め、まことの神へ立ち帰りました。そして、いつか再びエルサレムに戻って、神殿で兄弟姉妹と共に笛や琴の音と共に神を賛美し神を礼拝するときを待ち焦がれていたのです。
捕囚を経た人々は、同胞と共に神を礼拝できることがあたりまえではなく、それが大きな恵みだったことを知ったのです。
詩篇133篇にもどりますが。
この133篇は、バビロンからエルサレムに戻った人々が、戻ってから苦労をして神殿を復興し、主の民と共に、兄弟姉妹と共に、神を礼拝することができるようになった、その喜びを歌っている詩篇です。
133篇の2節、3節には油が注がれ、それがしたたり落ちる、という描写があります。
油は神の祝福、神の恵みをあらわしています。油が、神の祝福が、礼拝を通して彼らに注がれ、したたり、流れ落ちる。神の祝福が、共にささげる礼拝を通して、神の民一人一人に注がれ、したたり、流れ落ちるほど豊かに与えられるのです。
「兄弟が共に座っている」とは、神の家族として、一緒に主の礼拝の場に留まり、神の恵みに与り続ける姿であり、神からの豊かな祝福を共に受け継ぐ有様。そして、共に神の国、天国を目指す歩みなのです。
ここで重要な言葉は「共に」という言葉です。神の国を目指すあゆみは、「共に」が大切です。
しかし、どうでしょうか。地上の神の国である教会、教会の礼拝であっても、「共に」が難しくなることがあります。なぜなら、私たちは神の民、兄弟姉妹ですが、罪のゆえにどうしても自分中心にことを進めようとする思いが顔を出すからです。このことについては、マタイ18:15-20にヒントがあるように思いますので、ぜひお読みください。今日は、ここを細かく見ることはしませんが、3つのことだけお話しします。
(1)心に引っかかることがあったら、一人で悩まないで、言葉をもちいて、話し合いで解決するようにしましょう。もしかしたら誤解があるかもしれないし、あるいは相手は、申し訳なかったと思っているかもしれないからです。自分の思い込みで対処するのではなく、冷静に、きちんと、相手と話すことが第一です。
(2)17節には、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」
とありますが、これは、異邦人や徴税人同様、罪人として仲間外れにせよということではありません。イエスは、異邦人や徴税人にも寄り添い、悔い改めの機会を与えたことを思い出してください。
(3)最後は、これが最も重要なことですが、共に祈ることです。共に祈れる関係、共に主を礼拝する関係に戻れるように、ということ。
共に祈るとはただ一緒に祈るということではありません。相手の祈りの課題を知って、それを私の祈りとするということです。そのためには、相手のことをよく知らなければ祈れません。
今までも教会的な課題は共有して祈ってきました。しかし、私たちの祈りはそれだけではありませんよね。一人一人にそれぞれ祈りの課題があります。そういう課題まで共有して祈れる関係が、本当の意味での神の家族だと思います。
昨年は、第4主の日の礼拝後、グループ別祈祷会をしましたが、今年もこれを継続したいと思います。
あるいは、この時間をもっと大切にしたいと思うのです。
共に祈ることで、神の家族としての関係をさらに深目たいと思います。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
新しい年が始まりました。
「兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」
それぞれが礼拝に集う努力、又兄弟姉妹が礼拝に集えるように祈り支え合う交わりを、昨年以上に充実させたいと思います。
詩篇133編の最後は「シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。」です。
礼拝の祝福は、永遠の命への祝福です!