2023年12月31日「主にあって喜び、祈ろう」

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主にあって喜び、祈ろう

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
マルコによる福音書 11章20節~25節

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翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 11章20節~25節

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2023年12月31日 <説教要約>マルコ11:20-25 主に会って喜び祈ろう
本日は、今年一年の締めくくりとして、2023年の川越教会テーマとテーマ聖句をもう一度ご一緒に考えたいと思います。今年のテーマは「主にあって喜び、祈ろう」、テーマ聖句はマルコ11章24節でした。
まず、「主にあって喜び」について考えます。これは、フィリピの信徒への手紙4章4節にある言葉です。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4:4)というように、新共同訳聖書では「主において喜びなさい」となっています。ですが、口語訳聖書、新改訳聖書、協会共同訳聖書では、「主にあって喜びなさい。」です。
もちろん、もともとのギリシャ語は一緒ですが、使われている前置詞の訳し方が違うのです。
あるいは、英語の聖書を見ると、
【NKJV】 New King James Version では、 Phi 4:4 Rejoice in the Lord always.
【TEV】 Today' English Version  では Phi 4:4 May you always be joyful in your union with the Lord.
いろんな翻訳を見ると、「主にあって喜ぶ」ということが具体的に想像しやすいですね。
感覚としては、わたしたちが喜べるのは「主の中にあって」、あるいは「主に結ばれて」が前提です。
主イエスから離れたところで、人生に喜びが全くないとは言いません。しかし、主から離れた喜びは、一時的、地上的、やがて過ぎ去るものであることを覚えたいと思います。

では、「主に結ばれている」とは、具体的にはどういうことでしょうか。
先週、クリスマスの説教で、イエスの誕生の意味を確認しましたが、イエスの誕生、イエスの受肉は、わたしたちと共にいるためだということを確認しました。マタイ福音書1章21-22を確認してください。
イエス・キリストの誕生の目的は、具体的には、自分の民を罪から救うためです。イエス・キリストの誕生と十字架の意味を信じ、受け入れることで、罪の赦しが与えられ、信仰によって神と結ばれるのですが、これが「主に結ばれた」歩みです。

しかし、残念なことに、日々の生活の中で私たちは、いつもいつも、「わたしは罪赦され、主に結ばれて、主に従って歩んでいる」ということを覚えていられないという現実、弱さがあります。ですから、いつもいつも、何度も、繰り返し言っているように、「インマヌエル」を意識して日々を生きるには、み言葉と礼典と祈り、つまり礼拝が大切、欠かすことができないのです。礼拝は神と共に歩むために必要不可欠なのです。
ですが、形だけ礼拝に出席はしている、というのではだめです。そのことがマルコ福音書11章15-19節、イエスが神殿から証人を追い出す話として記されています。実態の伴わない形式だけの礼拝を戒められたイエスの教えです。
マルコ15-17節を読みましょう。「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
これは、当時のエルサレム神殿での礼拝の様子です。多くの人が神殿にやってきて犠牲をささげ、あるいは献金し、祈りました。「そこで売り買いをしていた人々」とありますが、これは、川越祭りの時に通りに並ぶ屋台のような商売とは違います。礼拝のため遠路はるばるやってくる人々が、神殿でささげる犠牲の動物を買ったり、外国のお金をエルサレム神殿で通用するシェケルに両替したりするための店です。ですから、神殿礼拝には必要な人々、商売でした。ですが実際には、犠牲の動物は数倍も高く売られ、両替手数料も高く設定されていて、やはり商人たちは金もうけをしていたのです。16節には「境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。」とあります。これは、神殿の一番外側にある「異邦人の庭」、外国人たちが神を礼拝する場所を通って商売のものを運ぶ、ということがあったようです。商売人たちは異邦人たちを差別して彼らの礼拝を軽んじていた、というわけです。
そういう事情が分かると17節二重カッコの言葉『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」の意味がよくわかります。
神礼拝、神への祈り、神への献げものをただ形式的に行うようになっていた、ということ。それに対して、イエスは暴力的なほどの怒りを表現されたのです。

ですが、これ他人事として聞くのでなく、私たちも、自分たちがささげている礼拝をもう一度考える必要があると思うのです。私たち、主日礼拝ではいろんな奉仕がありますよね。あるいは、礼拝後に男子会や婦人会があったり、感謝なことに、愛餐会や食事会もできるようになりました。そうすると、それらに伴っていろんな働き、役割があるので、その準備に気を配る必要が起こります。あるいは、その日、配慮すべき事柄、配慮すべき人などがいて、それを忘れないようにしようと一生懸命になっていることがあるかもしれません。
でもそれ以前に、私たちは主日に神を礼拝するために招かれ、集まっているのだということを覚えたいと思います。「礼拝への集中」「神への集中」が主日の中心です。礼拝に招かれたことに感謝し、心からの祈りと告白をささげ、み言葉を受け取ること。与えられた恵みへの応答としての信仰告白、献金、神賛美。一つ一つを大事に集中したいと思います。

また、年間テーマの後半は「祈ろう」でした。
祈りは、主イエスを通して神に届けられるものです。ですから、主とわたしが結ばれていること、イエスを信じていることが祈りの大前提。主と結ばれているからこそ祈ることができる、ということでもあります。
マルコ11章20-25節でイエスが教えておられるのは、祈りにおける信仰の姿勢です。
〈疑わず〉〈言ったとおりになる〉、〈すでに受けた〉。そういう信仰をもって、神をそういう方と信じて祈りなさい! ということが教えられています。
「祈り」は、私から神への働きかけではないし、私が神を動かすという行為ではありません。熱心に祈ることで私の願いが神を動かして、神が願いを聞いてくださる、ということでもありません。実際にはその逆で、私の祈りにおいて神が働いておられるのです。神が私に願いを起こし、祈らせてくださる、という言い方もできるでしょう。
信仰をもって、イエスを主と信じて、イエスに従って生きようと願うとき、どんな祈りになるでしょうか?
祈りの中身は、自分中心の祈りから、神中心の祈り、隣人のための祈りへと変わっていくはずです。神が私に祈りを与え、私をその祈りのために用いてくださる、そのようにして、私の祈りが神に用いられていくのです。
今、私たちの教会には様々な課題があります。30人礼拝、奏楽者、役員候補者、新来会者や求道者、長年の求道の友が洗礼に導かれるように、などなど。そういう中で、今年は、12/3の礼拝が30人でした。5/28は29人、12/24は28人。このように私たちの祈りは、確かに神に聞かれているのです。
神が私に祈りを与え、私たちが信じて祈り、神が私たちを動かしてくださる。祈りにおいて「神が私とともに働いてくださる」。だから「主にあって喜び、祈ろう!」なのです。

「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」。これからも〈疑わず〉〈言ったとおりになる〉、〈すでに受けた〉と信じて、教会の課題、家族の課題、ご自身のことを祈っていきましょう。「祈り」を通して、川越教会が、また私たちが、神のご計画の中で、神の恵みの中で生かされていく。実際にそういうことが起こると信じ期待して、来年も喜んで、祈って、一緒に歩んでいきましょう。

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