2023年11月26日「あともう少し」

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聖句のアイコン聖書の言葉

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ローマの信徒への手紙 8章18節~39節

原稿のアイコンメッセージ

今回の説教の中心的主張点:神様はその約束を全て守ってくださり、必ずその民を完全に救ってくださいます。いつそれが実現するのか、これは時間の問題だけです。

序説: ローマ8章の後半は母の最も愛していた聖句です。
この話は「苦しみについて」が主な内容ですが、その時にまず第一に思うのは、膵臓ガンを患って50歳で天に召された母のことです。診断されて約1年半の苦痛は非常に大変で、最後の数ヶ月間、次の痛み止めの注射をただ待つばかりで過ごしていました。母は信心深い主の民でしたので、慰めと忍耐力を主から、主の御言葉から祈り求めながら、なかなか激しい戦いを余儀なくされた感じで一生涯を終えました。私はその時、神学校の2年生でした。多くの苦しみを味わいながら、祈っても聞かれている実感がなく、結局これも主に委ねて召されていきました。その苦しみの中にいて最も慰めになったのは、先ほど読まれましたローマ8章の後半でしたので、葬儀の説教をその箇所から求めたのです。主イエス様のおかげで、私たちは敗北者ではなく、勝利者であることをその説教によって最後の証を残したいと考えていたことを僕に話したのです。8章37−39節をもう一度聞きましょう。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、(苦しみも!)わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

1、言うまでもないことですが、世界中に多くの苦しみがあります。
ウクライナのロシア侵略、パレスチナの空爆に伴う多くの苦しみがあります。これらの様子は毎日報道されているので、これを目撃者であるかのように感じます。難民が増え、弱い者、小さい者がただ犠牲にされ続けているという思いがします。これ以外に、いわゆる「普通の」苦しみもあります。自然災害によるもの、疫病と飢饉など、犯罪によるもの、機関銃の殺害事件さえもあります。一時的なものもあれば、なかなか終わりそうもないものもあります。長引く場合は尚耐え難いことがあります。聖書では、イスラエル人の40年間の荒野の生活もあったし、70年間のバビロン捕囚の期間もありました。70年!たまたま次のような現象もあります。悪人が楽で栄える一方、主の民が苦しむことが最も辛いかもしれません。そこで、「神様どうして?」と絶望的なうめき声が昔から響いてきます。「主よ、これいいんですか?何とも思わないんですか?」と主の民が叫び出すことがあります。(例えば、詩篇73篇を参照。)

2、パウロによると、全世界が生みの苦しみを味わっています。昔も今もそうです。
この箇所をあまり細かく分析することができませんが、結論から言えば、人が創造主に背いたことによって虚無に服する苦しみを受けることになりました。全ての苦しみの根源がここにあります。この背きの罪によって直ちに滅んでもおかしくありませんでしたが、その憐れみによって神様は世界を滅ぼさないで、ご自分の民を呼び出すことにして、救われる民を起こしてくださることを良しとしてくださいます。最初から今日までがそのお定めくださったご計画の実現する営みとなっています。しかしそこで、この世にいる限りは、罪の結果である苦しみを味わい、混乱に陥ることがあります。究極的な救いを待たされて、約束された終末と新しい天地創造がいったいいつ実現するのだろうかと、戸惑ったりしています。自分の信仰が誤りなのではないかとさえ、辛い思いを抱くこともあります。私もたまにあります。主の民誰にでもあるのではないかと思います。皆様もきっとそのような思いになることがあると思います。いかがでしょうか。そこで使徒パウロが言うように、主の民もどう祈ったら良いかがわからなくなるほどの状態にいます。私の母はまさにそうされたわけです。

3、でも、苦しみのただ中にいても、解放される希望を持つことができます。
この希望こそが私たちにとって最も貴重なものです。主がちゃんと見守ってくださり、聖霊の助けを与え、ことを導いてくださるからです。時には自分を責めて、自分が味わう苦しみが天罰なのではないかと心配します。しかし、その時に次のことを忘れているのではないでしょうか。イエス様の贖いがあるから、罪赦がされたのですから、苦しみは罰ではなく、一時的なものです。40、70年のイスラエルの長引く苦しみがあったとしても、その中にいたご自分の民を主がちゃんと守ってくださいました。

生みの苦しみに例えていますが、どうお思いになりますか。子供が無事に生まれるとどうなるでしょうか。女は生みの苦しみを忘れることが本当にできるでしょうか?妻に聞いてみましたら、これは男の言う言葉でしょ!と言います。その陣痛と子供の誕生に伴う苦しみを一生涯忘れることがありません!私が反論しました。「確かにこれは男が言った言葉です。実はイエス様の言葉ですよ!」と。ヨハネによる福音書16章21節にありますね。でも、イエス様のおっしゃった言葉を注意して翻訳すれば、忘れるとは言っていません。ただ、集中しなくなると指摘してくれます。つまり、気にしなくなって、新しい命の誕生に集中して喜ぶのだとおっしゃっていますね。使徒パウロはここで私たちもそうなることを指摘してくれます。苦しみが終わらないうちにも喜びの希望を保ちます。栄えある将来が現れようとしています。苦しみが確かにあるのですが、今が救われた民に加わる時です。新しいものを目指して期待して、信仰をさらに深めて、イエス様による救いの道を宣教して告げ広めて、今あるものに負けるのではなく、勝利者となり、兄弟姉妹たちとともに励むのです。

4、苦しみには終わりが来ます。
私も苦しみを味わったことがあります。胆嚢に石があり、これが起こす、陣痛よりもひどい痛みに襲われます。腎臓の結石による痛みもすごいそうですね。でも、さらに情けないものもありました。歯医者によって歯の根管治療を施した時に、麻酔を打たないで行われてしまいました。「何なのか、麻酔を使わないというのか?」と驚いた私に、「すぐ終わるから麻酔を打つに値しますせんよ。」と答えてきます。一時的なものだから我慢していただいた方が楽だというわけですね。また、脛(スネ)に傷ができて、化膿してしまった時に、傷の治療を経験しました。膿が出ないので、その傷に少しメスをあてて、抗生剤の塗る薬が効くようにします。僕はテーブルに座り、医者が膝を屈んで手当てを始めると、ものすごく痛く感じるわけですね!我慢している私に顔を上げて、「痛いですか。」と聞く医者に、「すごく痛いだよ!」と答えると、その時、「あともう少しだ。頑張って!」と言われました。後で思いました。ここでいいことを示されたね、痛みで死ぬわけではありません。あともう少しだって、いい言葉を聞かされました。処置が無事に終わって、次第に傷が治りました。

「あともう少しだ」と、今の世の苦しみをそう思うべきではないでしょうか。神の子たちの現れを待たされる天にいる方々も、「あともう少しだ」と言われます。黙示録6章9−11節にあります。「小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。」あともう少しだよ、と。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」と使徒パウロが記した通りです。主イエス様も苦しみが終わる時に表れる喜びのために、苦しみを拒否しませんでした。十字架の苦しみです。主はいつも私たちにとって最も良い教訓を示してくださいます。

「あともう少しだ」と言えば、それが一体いつまでとなるでしょうか。救い主がその子孫から生まれると約束されたアブラハムの時からベツレヘムまで2000年経ちました。そして十字架から今日までもさらに2000年間が経とうとしています。初代教会はイエス様の再臨が間もなく実現すると期待しましたが、それがまだ起こりません。主イエス様の再臨を待ち望むことはむなしいことなのでしょうか。とんでもありません。私たちの救いのために尽くしてくださった主は必ず最後まで必要を満たしてくださいます。その愛から私たちを引き離すことのできるものはありえません。実に苦しいことがあっても、全てを働かせて益としてくださる方が私たちの味方です。今は先がはっきりと見ることができなくても、かの日になりましたら、主がどんなに良くしてくださったかを認めるようになります。その子が生まれる時に、思いが痛みから喜びに転じるように、私たちにも苦しみがあったことを例え忘れることがなくても、もう、その時が過ぎたのだと理解して、永久の平安の日々を送る中で、ただただ賛美する民として、全ての思いをいつも共にいてくださる主に向けるでしょう。

決論:苦しみの中に置かれていると、主の愛を疑問視することがあります。これが世々の主の民が経験していることです。けれども、焦るのではありません。完全な救いの時が来ます。神様はその約束を全て守ってくださり、必ずその民を完全に救ってくださいます。いつそれが実現するのか、これは時間の問題だけです。あともう少しですよ!

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