2023年11月19日「心に働くキリストの愛」
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心に働くキリストの愛
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- 木村恭子 牧師
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エフェソの信徒への手紙 3章14節~21節
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聖書の言葉
こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。
御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
エフェソの信徒への手紙 3章14節~21節
メッセージ
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<説教要約> エフェソ3:14-21 「心に働くキリストの愛」
今朝はエフェソの信徒への手紙3章14-21節を扱います。
ここはパウロの祈りです。14~15節が「呼びかけ」、16~19節が「祈りの中身」、20~21節が「讃美」です。
14節でパウロは、「ひざまずいて祈ります。」と言います。当時、多くのユダヤ人は祈るとき、立って、両手を上げ、顔を天に向けて、天におられる神に祈るというのが彼らの祈りの姿勢でした。しかしパウロはひざまずいて、心からエフェソ教会の人々を思って、祈っています。
15節「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」は、意味がとりにくいですね。ここは、聖書協会共同訳聖書の方がわかりやすい。
「このようなわけで、私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。」(協会共同訳14-15節)
天と地にあって家族と呼ばれているとは、神の家族ということです。「父なる神」は、地上で生きているクリスチャンだけでなく、すでに召された天上のクリスチャンも含めたすべての神の家族の父であり、そういう方に祈っているのです。
16節から19節がパウロの祈りの中身ですが、大きく二つのことを祈っています。
一つは、人の内側のことです。
16節「霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださるように」ということ。
聖霊の働きによって、神の力で、わたしたちの心が変えられるようにという祈りです。
私たちがキリストを信じる、信仰を持つとき、それに先立って聖霊の働きがあります。そして、信仰を持った者たちが、今度はキリストに従って、神に喜ばれる歩みをしたいと願うようになるわけですが、そのように心をつくりかえてくださるのも、聖霊の働きです。
17節では「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように」と祈ります。
「心の内にキリストが住んでくださるように」とはどういうことでしょうか?
これと同じことを、聖書はいろんな表現で教えています。
例えば、「心の扉を開いてキリストを迎えるように」という表現があります。「キリストに結ばれる」とか「キリストと共に生きる」なども、同じことを表現しているのだと思います。
もう一つの祈りは、17節後半から19節までに記されているのですが。キリストを心にお迎えすることを通して、私たちがどのように変えられていくのか、ということです。心にキリストが住んでくださることで、その人はキリストの愛を理解できるようになる。さらにキリストの愛を受けて、自分も隣人に対して、愛を実践できるように変えられていく。生まれながらの罪ある心にキリストの力が働いて、人を内側から変えてくださるのです。もちろん、一度にというわけではありません。少しずつ、少しずつですが、心にキリストの愛が働いて、わたしたちも神を愛し、隣人を愛することができるものとされていくのです。そして、私たちがキリストの愛を深く知り、その愛に生きることを通して、最終的には、私たちが神の豊かな恵みに満たされるようになる。パウロは、エフェソ教会の人々がそうなるように祈っているのです。パウロは、キリストの愛について、いろんな表現を用いています。
18節 キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがを理解できるように。
19節 人の知識をはるかに超える キリストの愛を知ることができるように。
「キリストの愛の広さ」という時、何を思いますか? キリストは、かつてはユダヤ人だけに限定されていた神の国の祝福を、すべての人に与えるために十字架にかかってくださいました。
「キリストの愛の長さ」という時、何を思い出しますか?
エフェソ1:4-6 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」キリストの愛は、天地創造の前からの愛です。
「キリストの愛の高さ」はどうでしょうか。
エフェソ2:6「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」キリストの愛は、私たちを神の国、天にまで引き上げてくださる愛です。
「キリストの愛の深さ」はどうでしょうか?
フィリピ2:6-8「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
高いところにおられた方が、地上に降り、人間の姿で生き、十字架にかかって死に、そして陰府にまで下った。これが、キリストの愛の深さです。
聖書の言葉で言えば、そんな風に言うことができるでしょう。けれど、皆様方それぞれの人生においてキリストの愛は、具体的に広さ、長さ、高さ、深さをもって、示されているはずです。
キリストの愛は、私たちの思いをはるかに超える愛、私たちの想定の範囲を超える愛なのですが、キリスト者は、このキリストの愛を一生かけて知っていくことができるのです。
そうして、ついには、19節「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」される。パウロは、エフェソの人たちがそういう信仰の歩みをしていくようにと祈っているのです。
パウロの祈りの中で、一つ注目したいことがあります。それは、18節の初めの「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に」という言葉です。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を理解し、「 人の知識をはるかに超える」キリストの愛を知り、「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、満たされる」ようになる。これは、私一人だけで、ということではありません。
「すべての聖なる者たちと共に」です。一人で、聖書を読み、神に祈っているだけでは、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知り、神の豊かさに満たされることは難しいのです。エフェソの人々であれば、エフェソ教会のキリスト者が神の家族として、共に祈り、仕え合い、励まし合って生きる時に、そこにキリストの愛があらわされ、神の家族全員がキリストの愛に与り、豊かにされていくのです。
地上の神の国としての教会ではいろんなことが起こります。時には理解し合えないようなことも起こります。しかし、そういうことも含めて、あるいはそういうことも用いられて、私たちは以前より広く、長く、深く、互いを理解し愛することのできるものへと変えられていくのです。
何故なら「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」(エフェソ1:23)だからです。信仰生活は個人プレーではありません。私たちの信仰、私たちの愛は、特に教会の中で、主にある交わりの中で、他の兄弟姉妹と共に生きる時に成長があり、神の豊かさに与ることができるのです。
最後3:20-21は、礼拝で言えば祝祷に当たる部分です。ここも「教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」です。