2020年07月19日「教会がずっとしてきたこと」

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教会がずっとしてきたこと

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 2章37節~42節

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人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 2章37節~42節

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<説教要約>
使徒言行録2章37-42節 (新約 P216)
説教 「教会がずっとしてきたこと」 

使徒言行録2章のペトロの説教を扱っていますが、先週の所まで(36節まで)で、ペトロの説教そのものは終わりました。今日は37節~42節までを扱います。
37節が、説教を聞いた直後の人々の反応。38-40節は、具体的なペトロの勧め。41-42節はペトロの勧めに応答した人々の様子が記されています。少しずつ見ていきましょう。
先ず、37節。
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。(使徒2:37)
新共同訳聖書では、「大いに心を打たれ」と訳していますが「心を刺し貫かれ」というような、もっと強い言葉が使われています。人々は、ペトロの説教で、イエスの十字架と復活、昇天、着座までが、旧約聖書に預言されていたことの成就だということを示され、納得し、そして衝撃を受けたのです。
ペトロの説教の最後の言葉はこうでした。
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒2:36)
彼らは、長いこと待ち続けていたメシアを、自分たちが十字架につけたのだということを理解したのです。それで「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言ったのです。

この言葉へのペトロの応答が38節から40節まで。ここでは、今彼らが行うべき具体的な勧めをしています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)
ペトロはここで、三つのことを教えています。
①悔い改めなさい。②イエス・キリストの名によって洗礼を受けて、罪を赦していただきなさい。③そうすれば賜物として聖霊(神の霊)を受けます。という三つのことです。
先ず、「悔い改めなさい」という勧めですが、普通「悔い改め」というと、悪い行いとか、悪い思いを改めることですよね。ですが、聖書で言う「悔い改め」とは、「神なし」の人生ではなく、「神を認める生き方」へと方向転換を意味します。
ユダヤ教の人々は、「神なし」の生き方をしてきたわけではありませんから、ここでは「イエスをメシア、救い主と認める生き方へと方向転換しなさい」という勧めになります。
私たちに対しては、「神なし」の人生から、「神あり」の人生へと方向転換しなさい。あるいは、偶像を神とする生き方から、聖書の神、今も生きて働いておられる神の存在を認め、信じる歩みに向きを変えなさい、というメッセージになります。
②イエスキリストの名によって洗礼を受けなさい。
イエス・キリストの名による洗礼とは、イエス・キリストをわたしの神、罪からの救い主と信じたことの意志表明です。同時に、これからの人生を、イエス・キリストの教えを基準として、キリストに従って生きていきますという誓約でもあります。
③賜物として聖霊を受けます。
「賜物」という言葉は聖書によく出てくる言葉ですが、日常ではあまり使われない言葉で、いわゆるキリスト教用語だと思います。
「賜物」と訳されているギリシャ語は、「ただで」「無料で」とか「贈り物として」という意味です。
ですから、洗礼を受けると、神からの贈り物として、私たちはただで、無料で、聖霊(神の霊)を受けるのです。ペンテコステの時、イエスの弟子たちは神からの霊、聖霊をただで受けました。それと同じように、私たちも洗礼を受けると、神の霊である聖霊が与えられるのです。既に洗礼を受けておられる方々には、神の霊である聖霊がそれぞれに与えられています。私たちは聖霊の導きと助けによって、歩みが守られたり、神からのメッセージを深く理解したり、神に従って歩もうという思いが与えられたりと、いろんなことが起こってくるのです。

さらに39節では、「イエス・キリストを信じて洗礼を受けることで、罪が赦され、神の霊である聖霊を受ける」という約束は、神が招いている者、神が呼び寄せる人ならだれにでも、与えられる、と教えられています。「誰にでも」とは、あなた方も、あなたがたの子どもも、遠くにいるすべての人も。と言い換えられていますが、特に「遠くにいるすべての人」は、ユダヤ人以外の人々、異邦人たちのことを指しています。

40節では「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧められていますが、「邪悪な時代」とは、信仰のない時代のことです。イエスは、福音書の中で「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」と言われましたが、まさにこれと同じ言い方です。「邪悪な時代」とは、真の神を信じる信仰がない時代ということです。

そして、41-42節は、ペトロの具体的な勧めに対しての人々の応答が記されています。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。(使徒2:41)
彼らは心打たれた結果、すぐに行動へと促されたのです。
「もっとゆっくり考えて」とか、「後でまた聞くことにする」とは言わず、自分の思いをすぐ行動に移したのです。「後で」という時、再びその機会があるかどうか保証はありません。先のことは私たちにはわからないのです。ですから、必要なこと、大切なことは先延ばししないことです!!
3000人が一日で洗礼を受けられたのだろうか??? そんな疑問もあるかもしれませんが、私たちが今心配することではありません。それより、42節が大切です。
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(使徒2:42)
「使徒の教え」とは、キリスト教信仰についての知的理解です。今でいうなら、聖書の学び。礼拝のメッセージなどにあたります。キリスト教は、妄信、むやみやたらに信じる宗教ではありません。
「相互の交わり」は、キリストを信じた者同士の交わり、具体的には教会での交わりのことです。ですがただ親しく、楽しく、ということではありません。「交わり」と訳されているギリシャ語は「コイノニア」という言葉で、「分かち合う」「協力する」という意味もあります。「パンを裂くこと」は、今の私たちに当てはめるなら「聖餐の礼典」のこと。
そして最後は「祈ること」です。

使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること。この4つのことを彼らが共に始めたことで、ここに最初の教会、エルサレム教会が誕生しました。教会とは、十字架のついた建物ではありません。たとえ、教会堂がなくても、イエス・キリストを信じる者たちが集い、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることを共有するなら、それがキリストの教会です。この後、宣教によってキリストの福音が世界各地に広められ、信者が起こされていきますが、そこには必ず教会が建てられていきます。そして教会という時、そこで行われるのはこの4つのこと、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることです。

それで、今日は三つのことを覚えたいと思います。
(1)自分へのメッセージとして受け止める
37節で、人々は心を大いに打たれた、心を刺し貫かれた、とお話ししましたが、どうしてそんなことが起こったのでしょうか?それは、人々がペトロのメッセージを、自分に語られている言葉として受け止めた結果です。もっと言うならば、ペトロを通して、神が自分に語っている言葉と受け止めたのです。
これが、説教の聞き方です。説教は知的に理解するだけでは不十分です。今、語られている言葉を、聖霊が聞いている一人一人の心へと届けてくださる、という言い方をすることもできるでしょう。説教者を通して、神が、私に語っているメッセージなのです。
神が私に語っておられるのであれば、私はその神のことばに応答しなければなりません。説教を聞いたら、私たちはそれに応答して動くべきです。そのように説教を聞くことで、私たちは信仰の成長が与えられるのです。
(2)悔い改め 神なしから神在の人生へ
また、悔い改めとは、神なしから神ありの人生を歩み始めることだと言いました。この悔い改めによって変わるのは、私たちの価値観です。日本は「恥の文化」と言われ、人の目、人の評価を気にする人種と言われます。ですが人の目を気にするということは、裏返せば、人が見ていなければ何をしてもいい、ということにもなります。倫理道徳の基準があいまいなのです。
しかし、神であれば、見ておられないところはないのです。人に知られなくても、神は知っている、見ておられるのです。ですから、私たちの行動は変わってくるはずです。神の前に正しい歩みを選び取ろうという方向へ。また、人に気付かれず、評価されなくても、私たちの行いを神は見ておられ、評価してくださるということでもあります。ですから、悔い改めて神へと立ち返ることで、私たちの人生の歩みは確実に変わるのです。
(3)教会の使命
使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることを共有することで、キリストの教会が誕生したとお話ししました。
では、何のために、教会はこの四つのことを続けるのでしょうか? それは、この世の神の民を集め、信仰者としての歩みを全うさせるためです。福音宣教によって、この世に散らされている神の民を集めること。そして集めた神の民を天国まで送り届けること。この二つが、世のすべての教会に与えられている働きでありたくされている使命です。
教会は地上の神の国とも言われます。教会の働きによって、神の国に多くの人が加えられて神の国が広がっていく、成長していくのです。
この使命は、私たちの教会にも与えられています。この働きのために、教会員一人一人の働きが用いられるのです。各自の働きは小さくても、その働きが一つにされて神の国を作り上げる大きな働きになるのです。私たちの小さな働きが、永遠に続く神の国の働きに用いられているのですから、私たちの働きは決して小さなものではない、ということでもあります。今週も、心を込めて、神と教会、隣人に仕えてまいりましょう。

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