2023年10月29日「死者が復活する望み」
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死者が復活する望み
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- 木村恭子 牧師
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使徒言行録 22章1節~23章12節
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聖書の言葉
翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。
そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。
パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。
パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」
パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」 パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。
そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。
その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 22章1節~23章12節
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<説教要約>
今朝の話の中心は、使徒言行録23章1-12節。ローマの市民権を持つパウロに、正式な取り調べとして、まずユダヤ教の裁判が行われたという記事です。
それは「最高法院」で行われました。「最高位法院」は、ユダヤ人の政治と司法についての最高議会で、宗教問題もここで扱われます。議員は、ファリサイ派、サドカイ派とそれ以外にも数名の議員が選ばれていますが、主流はサドカイ派です。サドカイ派は、神殿の祭司などが中心の一派で、モーセ五書だけを信じ、8節には「復活も天使も霊も信じていない」という信仰的な立場が説明されています。
まず、23章1節でパウロは自分の今までの歩みを総括するような発言をしています。
23:1パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」と。
自分はユダヤ教徒であった時も、イエス・キリストを信じてからも、「あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」といいます。かつては熱心なファリサイ派のユダヤ教徒であり、復活のイエスに出会い、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」という言葉を聞いてからは、イエスの言葉に従って、熱心なキリスト教徒として、「あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」と。
パウロの発言の意図を理解した大祭司アナニアは、「パウロの口を打て」と命じました。
このあと、パウロと大祭司、あるいはその周囲の人々とのやり取りがありましたが、ここは深入りしないでおきます。
続いて、6節以下を見たいのですが。先ほどもちょっと触れましたが、この場にいるサドカイ派とファリサイ派、両者の間で「復活」について異なる見解を持っていることを知っていたパウロは、あえてその問題に触れます。
6節「パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」
この発言をきっかけに、議場はサドカイ派とファリサイ派の「復活」をめぐる論争になってしまったのです。激しい論争の中で、パウロの命に危険が及びそうになったため、千人隊長はパウロを強制退場させました。パウロは兵隊に助け出され、安全な兵営に退去させられた、というのが最高法院での取調べの結末です。
そして最後は11節。
23:11 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」
かつてパウロに現れた復活の主が、このタイミングでパウロのそばに立って、パウロを励ます言葉をかけたのです。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」と。
思い返せば、パウロは、エルサレムへ行く決心をし、エルサレムめざして旅をする中で、いろんな人にエルサレム行は危険だから、と止められました。
その時に、パウロはいろんな言葉で、どうしても自分はエルサレムへ行く。これは神から与えられた使命だから、という発言をしてきました。
少し振り返ってみましょう。
使徒19:21 このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。
これは、エフェソでアルテミス像をめぐる騒動に巻き込まれそうになった後のパウロの発言です。
使徒20:24 自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
これは、エフェソ教会の長老たちと別れるとき、自分の決心を語った言葉です。
さらにパウロは、カイサリアでフィリポの家に立ち寄ったとき、アガポという預言者が聖霊のお告げとして、「パウロがエルサレムで縛られ、異邦人の手に渡される」という預言を聞かされて、その時に自分の覚悟を語った言葉、それが21章13節。
使徒21:13「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」
このようにパウロは、ここまで自分の決心をいろんな場面で、周囲の人々に語ってきました。ですがこれらの言葉は、自分自身に対しても、自らの決心を確認する意味で語ってきたのだと思います。
しかし、少なくとも聖書に書かれている記述を見ると、このパウロの決心に対して、神からの応答はありませんでした。パウロは、自分はそう思って行動しているが、本当にこれが神のご計画に沿ったことなのか。
そういう心の中での葛藤はあったのだと思います。
そういうことを考えますと、ここで、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」という言葉を主からいただいたこと。
これはパウロにとってはどれほど心強いことだったか。どれほどの力となったか、と思うのです。
神は、最もふさわしいタイミングで、パウロに言葉をかけてくださったなあと思わされます。
今、私たちには、直接神からの語りかけはありません。でも、神は私たちに対しても、いろんな形でメッセージを与えてくださいます。礼拝で語られるメッセージを通して。 聖書の言葉によって。
あるいは、祈りの中で与えられる心の思いを通しても。
わたしたちも、注意深く神に心を向け、目を注いでいる中で与えられる神からの応答に注意深くあり田尾と思うのです。
さらに今日もう一つ覚えたいこと。それは「死者が復活する望み」です。
パウロは、議場を混乱させる意図だけで「死者が復活する望みを抱いている」と発言したのはありません。
パウロは法廷戦術のために、口から出まかせを言ったわけではないのです。
パウロは確かに「死者が復活する望み」「復活信仰」を持っていました。
パウロは、神の御子、イエス・キリストの死と、三日目に復活なさったことを知っていました。又キリストの復活が、私たち、御子を信じる者の復活につながる、と信じていました。
パウロは、Ⅰコリント15:12~21でそれをはっきり記していますから、ぜひ読んでください。
特に20-21節「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」
これが、パウロの復活信仰、「死者が復活する望み」です。罪赦されて神と共に生き続ける信仰、さらには、やがて、死から復活する望みです。私たちも、この同じ望みの中に生かされている、入れられていることを、覚えたいのです。