2023年10月08日「千人隊長の疑問」
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千人隊長の疑問
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- 木村恭子 牧師
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使徒言行録 22章22節~30節
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聖書の言葉
パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」
彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだったので、千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るため、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。
パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。千人隊長が、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言うと、パウロは、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言った。
そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。
翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 22章22節~30節
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<説教要約>
<説教要約> 使徒言行録22章22-30 説教題「千人隊長の疑問」
パウロは、エルサレムであらぬ疑いをかけられました。それは「パウロが異邦人を神殿に連れ込んだ」といううわさです。このうわさがきっかけでエルサレム中が混乱し、ローマの軍隊が出動し、パウロが逮捕されました。しかし、パウロを逮捕した千人隊長は、パウロに弁明の機会を与えたのです。
群衆は、パウロがこの疑いについてどのように弁明をするのだろうかと、静かに彼の話を聞きました。結構長い話でしたが、人々は忍耐して聞いていたのです。しかしパウロは、「異邦人を神殿に連れ込んだ件」にはまったく触れません。
それどころか、イエスの話になっているんですね。それで、人々はだんだんイライラしてきたのでしょう。
そして、パウロの話が「自分は異邦人に福音を語るために遣わされたのだ!」という話に及んだところで、怒りが極限に達し、爆発しました。
人々は叫びました。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」そして「わめき立て、上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らし」その場は再び混乱状態になったのです。上着を投げつけ、砂埃をまき散らすというパフォーマンスは、「お前はわたしたちの同胞ではない!」あるいは「お前はユダヤ教の冒涜者だ」という意思表示でしょう。この場にローマの兵隊がいなかったら、パウロはステファノのように、この場で石打にされたに違いありません。
その場が又騒然となり、これ以上騒ぎが大きくなるのを防ぎたかった千人隊長は、ひとまずパウロを兵営に入れました。しかし千人隊長は、この騒動が起こった理由、原因を、まだ把握していませんでしたから、パウロをむち打ち、拷問によって真相を白状させる、という方法をとることにしたのです。
ところが、そこで問題が生じました。実はパウロは、ローマの市民権を持っていたのです。
当時ローマ帝国の市民には様々な権利が保障されていました。例えば選挙権・被選挙権(ローマの官職に就任する権利)、婚姻権、所有権、裁判権と控訴権、ローマ軍団兵となる権利などが主なものです。
ここで関係するのは、裁判権ですね。ローマ市民には、裁判を受ける権利が保障されており、ローマ市民を裁判もせずに罰することは違法だったからです。
千人隊長は、パウロがローマ市民だということを聞いて、パウロのもとに飛んできて確認します。
「あなたはローマ帝国の市民なのか? わたしにいいなさい。」と。皮肉なことに、千人隊長はお金を出して、それも大金をはたいて、ローマの市民権を得た人だったのですね。
使徒23章26節に千人隊長の名前が記されています。総督フェリクスへの手紙の出だし部分です。使23:26「クラウディウス・リシアが総督フェリクス閣下に御挨拶申し上げます。」と。ここから、千人隊長の名前が「クラウディウス・リシア」であり、多分ローマ皇帝クラウディウス帝の時、お金でローマ市民権を買った人、と推測できるようです。
この事実が明らかになりましたから、パウロはこの後、きちんとした裁判にかけられることになります。
まずは裁判が必要、ということが確認され、パウロはユダヤの裁判「最高法院」「サンヘドリン」で裁判にかけられることになります。
また、千人隊長自身、単に役目としてだけでなく、「なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたい」という思いがあったようです。
今日の箇所はここまでなのですが、先週の話と今日の箇所、両方をまとめていて気が付いたことがあります。
それは、パウロの弁明は、誤解から生じたことで自分の命が狙われた、その誤解を解くための弁明ではなかった、ということです。パウロは、「異邦人を神殿に連れ込んだかどうか」について、語っていない、というより語るつもりがなかったのでしょう。
彼は、終始、イエス・キリストを証ししているのです。
自分とイエスとの出会いの話をし、ユダヤ人が十字架につけて殺したイエスが、罪の赦しを与える方として確かに復活したこと、その方が自分に語りかけてくださり、罪の赦しが与えられたこと。そして自分に「異邦人伝道」の使命が与えたことを証ししたのです。
もしかしたら、石打の刑にあって殺されるかもしれない。ローマ式のむち打ちの刑に処され、投獄されるかもしれない。さらには、人々を扇動し町を混乱された罪に問われるかもしれない、という時にです。
では、パウロはここでイエス・キリストの福音を語りたかったのです。こんな風に、大勢のユダヤ人同胞の前で、キリストの福音を語れる機会は、そうあるものではないでしょう。ですから、パウロはこのチャンスを、福音宣教の機会としたかったのです。
また、千人隊長は、ヘブライ語が理解できなかったかもしれません。 しかし、パウロの弁明がユダヤ人たちには有効に機能せず、逆にユダヤ人たちを怒らせてしまったことは感じたはずです。
それで、彼は余計に、パウロの語ったことの内容を知りたいと思いましたし、その必要があったのです。
わたしたちは、パウロの弁明から、この時のパウロの心境、あるいはパウロの信仰を確認したいと思います。先週はフィリピ1章20b-21節を引用しましたが、今朝はローマ14章8-9節を引用します。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」
ここの主語は「わたしたち」、パウロだけでなく「イエスをわたしの主」と信じる者たちで、当然ながら私たちも含まれています。
「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」とは、生きるとすれば、主を証しするために生き、そして死ぬときもまた、主を証しするために死ぬ。
さらに「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とは、私たちの人生が主イエスの所有物だ、ということではありません。私たちの人生を通して、主が働かれる。あるいは私たちの人生の歩みと共に、主がいてくださるということ。そして死の時も、死んだ後も、主が共におられる。そのためにイエスが地上に来てくださったのです。
実際、私たちの人生は自分のものですが、自分で動かすことのできないことに支配されており、自分ではどうすることもできないことが多々ある。しかし、そこに神の意志、御心があるともいえるわけです。
そういう私たちの生涯の歩み、そして死と、死後までも含めて、責任を持って導いてくださる主がおられる。
主は、私たちキリスト者にとってそのようなお方であるからこそ、パウロは全生涯をかけて、キリストを証ししたのです。
ローマ14章8節「 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」このパウロの言葉を、今朝私たちも共有したいと思うのです。