2023年10月01日「パウロの弁明」

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パウロの弁明

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 22章1節~21節

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「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」
パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。
「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。
アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。
今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」
「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』
わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』
すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 22章1節~21節

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<説教要約>
今日は使徒言行録22章1節から21節までを扱います。
パウロは、神殿でユダヤ人たちに取り巻かれ、神殿から引きずり出されリンチを受けましたが、ローマの千人隊長はじめ兵士たちの介入によって、命を救われました。と言っても逮捕されたのです。しかし兵営に連れ込まれる前に、その場で騒いでいるユダヤ人たちに話をする許可を願い出て、千人隊長はそれを許しました。今日はその続きです。

「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」(22:1)パウロは、親しみを込めて、人々にこう呼びかけ、まずは自己紹介をしました。
自分はキリキア州タルソス生まれのユダヤ人。タルソスで育ち、教育はガマリエルのもとで、先祖の律法について厳しく学んだ、と。さらに自分は、「キリスト教」の迫害者で、信者を縛り上げ、語句に当時、殺すことさえした、と語ります。かつての自分は、皆さんと同じ熱心なユダヤ教徒、というより皆さん以上に熱心なユダヤ教徒だった、と言いたいのですね。実際には、今のパウロは、これらを心から悔いているのですが、しかし隠すことなく、ユダヤ人たちに語りました。

そして6節からは、ダマスコ途上でのパウロの回心の話です。実は、パウロの回心の記事は使徒言行録に3回記されています。ここ以外に9章1-19節、26章12-18節です。この三か所、細かいところは違いがありますので、関心のある方は後で読み比べてみてください。
天からの光、そして語りかけられた声。『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』
ただならぬ状況の中で、しかしパウロは答えます。『主よ、あなたはどなたですか』と。
パウロの問いに対して『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』という答え。
パウロはダマスコ途上で、自分が迫害しているイエスの声を聞いたのです。あるいは出会ったといってもいいかもしれません。そして、自分の信仰理解が間違っていることに気付いたのです。
信仰に対する熱心が人並外れて強かったパウロにとって、これはほんとうに衝撃的な出来事であったはずです。パウロは問います。『主よ、どうしたらよいでしょうか』。この場面で、パウロはこう言うしかなかったのでしょう。しかしイエスはパウロに命じました。『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と。強い光に照らし出され、目が見えなくなったパウロは、手を引かれてダマスコのアナニアのところへ連れて行かれました。

アナニアは、イエス・キリストを信じるキリスト教徒でした。しかし同時に、ユダヤ教徒として信仰深く、ユダヤ人の中でもよい評判を得ていたと。ここは、キリスト教を信じ、律法に従って信仰深く生きることができるのだ、というパウロの主張ですよね。このことをパウロはこの場にいるすべてのユダヤ人たちに伝えたいのだと思います。
アナニアはパウロに言いました。「兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。」と。そしてパウロは目が見えるようになったのです。使徒言行録22章には書かれていませんが、
使徒9:18には、「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」と記されています。ちょっと話がそれますが、ここから、「目からうろこ」ということわざができたそうです。そして「目からうろこ」の意味は、「まったく新しい発想を得る」。あるいは「あるきっかけで急に大きな発想の転換が起きたり、新しい知識を得たりしたときに『知らなかった!』という心境をあらわす言葉」として使われます。
このときのパウロの場合、「今まで信じていたユダヤ教は、神の啓示の途中だった」という発見です。
もっと具体的に言えば、「旧約聖書に記されている預言が、イエス・キリストによって完成したんだ」ということをパウロはここで知ったのです。
ここでアナニアはパウロに、「キリストを宣べ伝える証人として、神はパウロを選んだこと」を伝え、洗礼と罪の悔い改めを促します。
今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。(22:16)アナニアがパウロに語った言葉です。
キリスト教を信じる者たちを縛り上げ、獄に投じ、殺すことさえしたパウロ。ステファノの殺害にも協力したパウロ。そういうパウロに対して、神は、「立ち上がり、イエスの名を、イエスを信じる信仰を唱え、洗礼を受けるように」と促され、神はすべての罪を赦してくださる。
「目からうろこ」の体験をしたパウロは、ためらうことなく洗礼を受けました。

17節以下は、パウロがエルサレム神殿で祈っていた時の話が記されています。
「神殿は祈りの家」です。パウロはそこで何を祈ってたのでしょうか。
彼はここで、主の幻を見たのです。しばらくのやり取りの後、主は言われました。
「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」(22:21b)パウロはユダヤ教の神殿で、異邦人伝道という使命が与えられたのです。
ということは、ユダヤ教の神殿は、キリスト者にとっても祈りの場だということです。パウロは、自分がいままで信じてきた旧約聖書の神と、メシア・キリストとの関係を、自分の旧約聖書知識の中で整理しなおし、納得したのだと思います。ですからこの先パウロは、ここで与えられた異邦人伝道という働きに、命がけで進んでいったのです。
後にパウロはフィリピの信徒への手紙の中でこんな風に記しています。
「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:20b-21)

復活の主がパウロに現れ、直接言葉を語ってくださったので、パウロはこんな風に強い信仰を持ち、又主のために自らの生涯をかけて生きることができたのでしょうか?
イエス様に直接声をかけられたら、すぐに信じることができるし、直接働きが与えられれば、すぐに従える、そんな風に思いますよね。
しかし、今の時代も、同じように神は私たちに語ってくださいます。
目には見えませんけれど、イエスに代わって聖霊の働きがあり、又神の言葉としての聖書があります。ですから、私たちにも神を理解する知恵が与えられ、私たちもまことの神を信じることができる。イエスをわたしの主と信じて、主と共に歩もうとする思いが起こるんです。
パウロに語りかけられた主が、今も同じように、聖霊を通して私たちに語っておられる。
今朝も、礼拝の中で、聖書朗読を通して、説教を通して、さらに今朝は、聖餐の礼典を通して、主イエスが私たちに語られている言葉を、受け止めたいと思います。

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