2023年09月03日「主イエスの名のためならば」

問い合わせ

日本キリスト改革派 川越教会のホームページへ戻る

主イエスの名のためならば

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 21章1節~16節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。
わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。
翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。
幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。
そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。
数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 21章1節~16節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>使徒言行録21章1-16 説教題「主イエスの名のためならば」

1.序
今日から使徒言行録21章に入ります。ここからはWeセクション、ルカも一緒です。
一行はミレトスからコス島、ロドス島と陸地に近い島を経由してパタラという港に着き、そこで大きな船に乗りかえます。ここからは600キロ以上の船旅で、荷を積んだ船に乗り込み、地中海を横断してシリア州のティルスという港を目指しました。ティルスに着いた一行は、船が積んできた荷物を陸揚げする間、そこに7日滞在しました。
4節の前半「わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。」とあります。
7日間滞在している間に主の弟子たちを探し当て、交わりを持つことができました。初対面でも、同じ神を信じる主の民同士ですから、主にある交わりがあるのです。一つ信仰に結ばれて、一緒に神を礼拝し、ともに祈ることができるのです。こういう交わりが与えられ、一行も励まされたことでしょう。しかし4節後半。「彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。」とあります。ここ、ちょっと注意が必要です。新共同訳聖書では霊という言葉の前後にコーテーションマーク“ ”がついています。新共同訳聖書の「凡例」にこう書かれています。
「新約聖書において、底本の字義通り「霊」と訳した箇所のうち、「聖霊」あるいは「神の霊」「主の霊」が意味されていると思われる場合には前後に“ ”を付けた。」と。
つまり、ギリシャ語では「霊」(プニューマ)とだけ書かれているが、新共同訳聖書の翻訳者はここでの霊を「聖霊」「神の霊」と解釈したということです。
ところが、そうすると、使徒言行録20章22節のパウロの言葉「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。」と矛盾します。ここでは聖霊がパウロに、エルサレムに行くように促している。それなのに、21章4節では「“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。」つまり聖霊が「エルサレムに行かないように」と言っている。
聖霊がパウロにはエルサレム行きを促し、ティルスのキリスト者たちには「エルサレムに行かないように」と忠告しているとしたら、何か変ですよね。こういう箇所、注意が必要ですね。
それで、21章4節の「霊」は、聖霊ではなく、彼らの霊、と考えたらどうでしょうか。
実際、新約聖書で「霊」という言葉は、神の霊にも、人の霊や汚れた霊に使われているのです。
ですから4節は、「ティルスのキリスト者たちの霊が」と読めば、つじつまが合う。ティルスの弟子たちが、パウロたちの身を案じて「エルサレムに行かないよう」忠告している、そう読むこともできます。
あるいは、ここ「霊」を「聖霊」として考えると、ティルスのキリスト者たちは、他のキリスト者たちと同様に「パウロたちがエルサレムで迫害に遭う」ということを聖霊に示された。だから、彼らはパウロの身を案じて「エルサレムに行かないように」とパウロに繰り返し言った。つまり、「エルサレムへ行かないように」というのは、聖霊の言葉ではなく、ティルスのキリスト者たちの思いと考えるなら、これでつじつまが合います。少し面倒な話ですが、聖書を読む時にこういうところに注意が必要です。
しかし一行は、「わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。」とあり、計画を変えることはありませんでした。やがて、同胞たちの祈りに送られて、出発したのです。

ティルスを出航し、プトレマイオスの港に着いた一行は、そこで一日過ごします。プトレマイオスでも、「兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした」とあります。
そして翌日カイサリアに向かいました。カイサリアには、エルサレム教会の最初の執事に選ばれたピィリポが住んでいます。フィリポは今、「福音宣教者」という肩書です。彼には家族があり、特に4人の娘は預言する者になっていた、福音宣教をする者だったと記されています。
9節以下に、アガポという預言者が登場します。彼は、言葉だけでなくパフォーマンスでパウロがエルサレムで迫害されると告げます。11節 わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」パフォーマンスがつくと、リアルですよね。実際手足を縛られ、拘束されて、異邦人に引き渡されるという具体的な様子が示されて、迫害の内容が明らかにされています。
この預言を聞いたとき、パウロの同行者たちもパウロのエルサレム行を止めたのです。12節「わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。」
しかしパウロは、13節「そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」と、はっきり自分の覚悟を言葉で示しています。
このやり取りは、神が、パウロの決心の強さを問うておられたのかもしれません。縛られ、異邦人に連れて行かれるようなことが起こるとしても、お前はエルサレムへ行くか? さらにローマを目指すか? パウロは神に問われ、自分の心に向き合う時が再度与えられたことでしょう。
しかし彼は「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」と宣言したのです。
心に恐れや迷いがある時、このような立場に追い込まれたとき、自分の決断をはっきり言葉にし、公言することで、自分の中での決心が強まる。そういうこともあるのではないでしょうか?
この言葉を聞いた人々は、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだのでした。
こうして、そこにいた人々はみな、自分の思いではなく神の御心に従って歩もう! という思いで一致し、エルサレムへと向かったのです。

ティルスのキリスト者たちとの交わりのところで、人間の心から出る思いと、神のご計画のこと。ちょっと触れましたが、これってなかなか難しい問題なんですね。特に、私たちがキリスト者として、クリスチャンとして、神の御心に従ってやっていこうとするときに、自分の思いと神のご計画を区別するのは難しいことがあります。
では、何が御心なのか判断できないとき、どうしたらいいでしょうか? 私の経験上、わからない中でも、祈りつつ前向きに一歩踏み出してみること、これが大切なように思います。迷いながらも一歩踏み出すことで、神が道を開いてくださることがあります。そうであれば「これが御心」と判断し進んでいけばいい。しかし「御心」と思っていても止められることもある。それがかなわないこともある。そういう時は、祈りつつもう一度自分の心の中を見つめなおしましょう。もしかしたら、神の御心ではなく私欲だったり、自分の気持ちに従っただけだったのかもしれない、と。
どちらにしても、自分は「主イエスの名のために働くのだ」「主イエスに従っていくのだ」という決意をもって、歩みを進めることが大切です。
神は、私たちを愛しておられ、それゆえ救いへと招き入れてくださいました。
その神に従って歩むことが、私たちキリスト者にとって何より幸いなこと。自分は主イエスに従って歩むのだ!という強い意志をもった歩みにこそ、神の恵み、祝福があることを今朝も覚えたいのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す