2023年08月13日「神は愛です」

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神は愛です

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 4章7節~21節

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愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネの手紙一 4章7節~21節

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<説教要約>2023年8月13日 平和を覚える礼拝 Ⅰヨハネ4:7-21 「神は愛です」

毎年8月15日に近い日曜日、主の日の礼拝は「平和を覚える礼拝」として献げています。
昨年2月に突然始まった、ロシアのウクライナへの軍事侵攻。これが長期化し、ウクライナだけでなく西側諸国を巻き込んで泥沼化しています。かつての太平洋戦争で大きな悲惨を味わった世界が、どうして同じ過ちを繰り返すのでしょうか。これは、過去に学ばないというだけでなく、罪深い人間のなせるわざというほかありません。しかしこれは他人事ではなく、私たちもその罪人の中の一人であることを覚えるべきでしょう。

ですが、私たちはどのようにして自分が罪人であることを知ることができるでしょうか? 
それは、まことの神を知ったからです。神の愛を知ったからです。
旧約聖書を見るとそれがよくわかります。
信仰の父と言われるアブラハム、皆さんよくご存じでしょう。
信仰の父といわれるアブラハムですが、もともとは偶像を信じる異教の民でした。
そのアブラハムに、神は目を留め、ご自身をお示しになったのです。

出エジプトの時もそうでした。
エジプトで奴隷として苦しんでいた人々の声を聞いた神が、神の方から救いの手を差し伸べました。
神の計画は、モーセという指導者を立て、彼らをエジプトから救い出すというものでした。
神がまず、苦しむ人々に目を留め、指導者としてモーセを選び、モーセに自己紹介して「あなたの神となる」と宣言なさったのです。
「わたしはあなたの神となり、あなたは私の民となる」。この言葉は「わたしはあなたを愛する!」というのと同じことです。
このように、神が、ご自身をお示しくださったので、人々は神を知り、そして信じる者とされたのです。神は愛する人々を、悔い改めと信仰へと導かれたのです。

旧約だけでなく、新約聖書においても同じです。
そのことを、最初に読んだ聖書箇所、ヨハネの手紙Ⅰ 4章7節以下から確認しましょう。
ヨハネの手紙Ⅰ4章9-10節「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
と記されており、神が一方的に、私たちを愛して、御子をお遣わしになり、御子を十字架に付けて、愛をお示しになったと教えています。
そして、次の11節には「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」と記されています。

ヨハネの手紙によれば、無償の愛を受けた私たちにただ一つ求められていること。それは、隣人を愛すること。隣人と、神の愛を分かち合うことだというのです。
ですが、そこで分かち合うのは私の愛ではありません。神の愛、神から受けた私の愛です。
神が私を愛しておられる。私が神に愛されている。その愛を私は隣人と分かち合うのです。
そして、「神から受けた愛を隣人と分かち合う」ことには次の展開があります。
それが12節。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
この世で、私たちは神を見ることはできません。しかし、「神の愛」という神の業を見ることができます。そして、互いに愛し合うことで、「神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされている」のです。

このことは、東日本大震災のキリスト者のボランティアの場で、具体的にいろんな形で見ることができました。
私たちが隣人と神の愛を共有するとき、そこに神の愛が生きて働き、そして広がっていくのです。
16節「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」
「愛のうちにとどまる」とは、私一人が神の愛にとどまる、神に愛される、ということではありません。「神の愛を隣人と分かち合いながらとどまる」ということを含んでいます。
私たちが神の愛を共有してそこにとどまるとき、神が私たちのうちにとどまってくださる。私たちと共にいてくださる。インマヌエルだ、と教えているのです。

最後にマザー・テレサの言葉を紹介します。
「愛の反対は憎しみではなく無関心です」。
マザー・テレサはインドのカルカッタで、貧困と病気で苦しんでいる人々の救済活動をしました。行き倒れのような人々に対して救いの手を差し伸べ、寄り添いました。特にその人の最後の時に誰かがそばにいる、看取る人がいるということを大切にしました。誰からも関心を持たれず、一人で死んでいくことは、人間にとって何よりつらいこと、と考えたのです。彼女は死にゆくたった一人の人に関心をもって、愛を示したのです。

ロシアによるウクライナへの軍事攻撃は長期化し、泥沼化して、人々は関心を示さなくなりつつあります。長期化することで「これが私たちの日常」と考えるようになるからです。しかし、争いの下で命を失い、家や仕事など生活基盤を失って苦しんでいる人々や、子どもたちがいます。戦争に駆り出される若者たちがいます。そういう状況が今も続いていることを、私たちは忘れてはいけないのです。多くのことはできなくても、ロシアとウクライナの状況には関心をもって、祈っていくことを忘れてはいけないと思います。

「キリストの平和」という賛美歌、ご存じでしょうか?
「キリストの平和が わたしたちの 心の 隅々にまで いきわたりますように」という、とても短い賛美歌です。礼拝ではこの後、この讃美歌を一緒に賛美します。
神の愛、キリストの愛、そしてキリストが勝ち取られた平和が、私たちの心に、そしてそこから世界の人々の心にまで広がっていくように、福音を伝え続けること、祈り続けることを私たちは忘れてはなりません。

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