2023年07月09日「パウロのエフェソ伝道」
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パウロのエフェソ伝道
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- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
使徒言行録 19章11節~22節
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聖書の言葉
神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。
このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。
このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。
このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 19章11節~22節
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<説教要約>使徒言行録19章11-22、「パウロのエフェソ伝道」
パウロはみ言葉を語る伝道者で、聖書を解き明かすことで人々をキリスト教信仰へと導く働きをしました。ですが、語るだけではなかったことが11-12節でわかります。
19:11 神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。
19:12 彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
病人の癒しと悪霊を退治する力を神がパウロに与えられたのです。今と違って科学的な知識がほとんどない頃のこと。人々は体の病も精神的な病も、どちらも神の力で癒していただくことを願いました。
主イエスも神の国の宣教と共に、病をいやし、悪霊を追放して、苦しむ人々の心と体を癒し、神の愛をお示しになりました。また、後のキリスト教会も、み言葉と共に愛の業を行うことで、神の愛を世の人々に伝えてきました。キリスト教の伝道は、み言葉と愛の業によってなされる、これは今も昔も変わりありません。
ところが、神がパウロにお与えになったこの特別な力を見て、それを金もうけに使おうと考えたとんでもない者たちがいました。それが、ユダヤ人祈祷師、具体的には祭司スケワの7人の息子たちです。
「ユダヤ人祈祷師たち」とありますが、この「祈祷師」という言葉は「悪魔払い、悪霊払い」という言葉だそうです。
「悪霊追放、悪魔祓い」は、旧約聖書では、異教の神々の名で行う悪霊追放は禁止されていましたが、まことの神(ヤハウェ)の名で行う悪霊追放は認められていたそうです。中間時代にも、ユダヤでは「悪霊追放」が行われていました。福音書には、イエス様が悪霊を追い出された記事があります。(ルカ福音書11:14など)。「霊」については、聖霊も悪霊も、どちらも見えないで、私たちにはわからないことが多いです。しかし、霊の存在ということでは、聖霊の働きを信じているわけですから、その働きを阻止しようとする悪霊の働きもある、ということは言えると思います。
ここに登場するユダヤ人の祭司長スケワの7人の息子たちは「悪霊追放」で生活していたのでしょう。
そして、彼らはパウロがやっていることを見て、試しに「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言ってみたんですね。あくまでも、試しに「イエスの名」を使っただけで、イエスの名、その力を信じて、信仰をもって行ったわけではありません。しかし、その結果は惨憺たるものでした。
19:15 悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」
悪霊は、イエスのこともパウロのことも知っているといいました。そして、息子たちに言いました。
「だが、いったいお前たちは何者だ。」これは「この偽り者らめ!」「そんな偽り者に従うつもりなどないぞ!」ということでしょう。そして、悪霊は追放されるどころか、悪霊につかれた男が、この息子たちをひどい目に遭わせた。悪霊払いどころか、反対に悪霊に痛めつけられたわけですね。そして
19:16 b彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。 まあ、こんな事件が起こったのです。
こういう話は、あっという間に広がるものです。
19:17 このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。
パウロが行う癒しと悪霊払い、これはイエスの力を示す業であると同時に、イエスの力による愛の業でもありました。一方で、スケワの7人の息子は、信じてもいないイエスの名を使って金もうけしようとした。結果、悪霊払いどころか、反対に悪霊に襲われて、ひどい目に遭ったのです。
この事件の後、イエスの名を信じて信仰に入った人々にある変化が起こりました。それが18-19節。
19:18 信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。
既にイエスを信じ、洗礼を受けていた人々が、イエスの名、イエスの力を見直すきっかけとなり、彼らの間に、恐れが生じ、そしてそれがさらなる悔い改めとなったのです。信仰に入っても、今までの生活からなかなか抜け出せない。悪いとわかっていながらやめられないことがある。これくらいなら大丈夫でしょう、という妥協が人々の中にあったのでしょう。また私たちの心にもあると思うのです。
エフェソのクリスチャンたちの中に、洗礼を受けてからも、魔術を続けていた人がいたのでしょう。しかし、このスケワの息子たちの話を聞いて、イエスの名、神の力を改めて見直したのです。
19:19 また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。 銀貨5万枚は5万人分の日給に相当する大きな額です。それを人々の目の前で焼き捨て、もう金輪際そういうものとは縁を切る、という意思表示をしたのですね。
そういうことがあって、20節。
19:20 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。 と締めくくられています。
19:21「パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し」とあります。
「決心した」は、「霊の導きによって決めた」とも訳すことができる言葉。
聖霊の導きによって、パウロはエフェソでの自分の仕事が終わったこと、そして次の働きに移るべき時が来たことを悟り、そういう中で、まずエルサレムに行く。また、いつかローマにまで行かなくてはならない! そういう思いへと導かれたのです。
今日のところから、二つのことを覚えたいと思います。
一つは、福音宣教と愛の業の関係です。イエスの宣教も、パウロの伝道も、あるいはペテロやヨハネも、神の言葉を語りつつ、同時に癒しや悪霊追放を行いました。これは、人間にできないすごいことをやって、人々を驚かせるために行ったわけではありません。イエスの業も、弟子たちの業も、人々を現実の苦しみから救う働き、愛の業です。キリスト教は、愛の宗教ともいわれますが、神の救いは、神の愛と恵みとしてあらわされるのです。
現代の私たちは、「目覚ましい奇跡」を行うことはできませんが、それでも福音宣教には、み言葉の宣教と共に愛の働き両方が必要です。改革派教会は長年、福音を語ること、み言葉による伝道に力を注いできました。それは間違っていません。しかし、一方ではそれだけで十分ともいえないのだと思うのです。
もう一つのことは、私たちの信仰の歩みにとっても愛の業が大切だということ。
改革派教会では「信仰義認」という教えを大切にしています。ただ、信じることで救いが与えられる。救いにおいて、私たちの業は何の意味もありません。ですがこれは、私たちの信仰の歩みに愛の業が必要ない、ということとは違います。主イエスは、律法の中心、私たちが生きるうえで最も大切なことは「神への愛と隣人への愛」と教えておられます。つまり、信仰をもって生きるとは、神を愛し、隣人を愛して生きるということで、心の問題ではなく、そのように生きなさい!というイエス様の教えです。信仰をもって歩むということは、神の愛に自分も生きるということです。ヤコブの手紙2:14-18をお読みください。