2023年07月02日「イエスの名による洗礼」

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イエスの名による洗礼

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 19章1節~10節

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アポロがコリントにいたときのことである。
パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。
そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。
この人たちは、皆で十二人ほどであった。
パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。
しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 19章1節~10節

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<説教要約>使徒言行録19章1-10、 説教題「イエスの名による洗礼」
第二回の伝道旅行で、パウロはエフェソに行かれませんでした。聖霊に止められたからです。しかし、3回目の伝道旅行では、「内陸の地方を通って」陸路からアジアの弟子たちを訪問しながら、エフェソに下って来たのです。こうして一行は、聖霊に止められることなく、エフェソに到着しました。
パウロがエフェソについたときに、エフェソのキリスト者とは別の「何人かの弟子に出会った」のです。「弟子」といってもイエスの弟子ではありません。たぶん彼らはもともとは「洗礼者ヨハネの弟子」と思われます。洗礼者ヨハネによって悔い改めの洗礼を授けられた人々が、洗礼者ヨハネのように隠遁生活、修道僧のような生活を送っていたようです。
7節には「皆で12人ほど」とありますから、彼らは集団で悔い改めの生活、神の前に身を正した生活を送っていたのかもしれません。パウロは、罪を悔い改めて生きようと努力している彼らに、イエス・キリストの救いを語り始めました。
19:2「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
彼らは、イエス・キリストの救いについてはほとんど知らなかったと思われます。そこでパウロはさらに彼らに質問しました。
19:3「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「かれヨハネの洗礼です」と言った。
19:4 そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」
聖書では、この後すぐに
19:5 人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。と記されています。
けれども、実際には彼らが洗礼に至るまでに、パウロによる信仰教育があったはずです。パウロは洗礼者ヨハネが、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」と教えていた、その方こそがイエス・キリストであると教えたはずです。
イエスは、神の御子として地上に来られ、十字架と復活、昇天を通して、イエスを信じる者たちが罪赦され、神と和解する道を備えてくださったことを丁寧に教えたのです。
こうして彼らは、この場で改めて「主イエスの名による洗礼」を受けたのです。その結果6-7節
19:6 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。
19:7 この人たちは、皆で十二人ほどであった。
こうして彼らは晴れてキリストを信じるクリスチャンとされたわけです。

ですが、この話「あれ??」と思った方いらっしゃると思います。ここでは、「聖霊が降った」のは、洗礼を受けた後、と記されています。洗礼が先で、聖霊の働きは後から? こういうこともあるのでしょうか?
いいえ、私たちに信仰が与えられるためには、聖霊の働きが必ず先行するはずです。
聖霊の働きなしに、「イエスは主である」と告白することはできません。ですから、彼らはすでに聖霊の働きを受けていたはずです。ただ彼らはそのことを教えられていなかったし、気付いていませんでした。
そしてここで初めて、ヨハネの洗礼ではなく、イエス・キリストに結ばれる洗礼を授けられ、聖霊の賜物を受け、正式に神の民に加えられた。それが彼らにわかる形で起こった。これがここでの話です。
ある注解書では「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」は「主イエス・キリストの名による洗礼を受けて、主イエスの体に加えられて生きていますか」と言い変えることができる、と解説しています。

それでは一体、聖霊とは何でしょうか。また、聖霊はどのように働かれるのでしょうか。
実は聖書には、聖霊の働きがいろんな形で記されています。いい機会ですから、「聖霊」について少し整理したいと思います。

旧約聖書では、聖霊は「神の霊」であり、「神の力」として表現されています。万物の創造の時に働いた神の力(創世記1:1-2)、人間に介入する神の力(民数記27:8)、そして歴史の終わりに当たって約束される救いの力(ヨエル書3:1)として記されています。
さらに、新約聖書では、神の霊、聖霊について語られる個所はたくさんあり、又様々な働きとして記されています。こちらも、大きく見ると3つに分けて考えられます。
一つは神の力としての聖霊。もう一つは、賜物としての聖霊。
さらには神の霊が人格として、最初は「キリストの霊」として示され、やがて「聖霊」独自の働きをされる神として、記されるに至りました。
力としての聖霊の代表的な箇所としては、ペンテコステの出来事があげられます。
さらに、霊的な賜物としての聖霊については、一コリント14:12などがあげられます。
さらに、神の霊が人格として、最初は「キリストの霊」として示され、やがて「聖霊」独自の働きをされる神として、記されるに至りました。
聖霊は「神の霊」あるいは「キリストの霊」と呼ばれて、地上でのキリストお働きを引き受けます。
そしてこの聖霊が、私たちの救いのために具体的に働いておられるのです。

今、週報裏面で毎週使徒信条の解説をしていますが、「われは聖霊を信ず」は、特に私たちの救いのために働かれる聖霊の働きです。
ウェストミンスター信仰告白では、人に信仰を与え、洗礼へと導き、神の民とするそのすべての働き、さらには信仰をもって地上生涯の最後まで生きる過程を、「有効召命、義認、子とされること、聖化、救いに至る信仰、命に至る悔い改め、よきわざ、聖徒の堅忍、救いの確信、」という順序で教えています。
順序はともかくとして、このような信仰者の歩みを、具体的に主導し、支えてくださるのが聖霊の働きです。

今日のところで、パウロに見出された12人は「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言いましたが、彼らがヨハネの洗礼を受け、さらにパウロに出会って主イエスの名による洗礼を受けるに至ったということは、すでにそこには聖霊の豊かな働きがあったからです。

彼らはここで改めて、パウロに教えられて「イエスの名による洗礼」を受けました。
「イエスの名による」とは、「イエスの中に入る」ということで、具体的にイエスに結ばれること、あるいは結ばれたという証です。
イエスに結ばれるとは、罪の赦しと聖霊を受け、イエスの教会つまり神の国の一員、メンバーになるということ、永遠の救いに与るということの保証でもあり、さらに、聖霊の賜物が与えられて、神の国の働き人としての働きに用いられることまでが、含まれています。ですから、「ヨハネの洗礼」と「イエスの洗礼」では、意味と価値が大きく違うのです。今、私たちも「イエスの名による洗礼」を受けて、イエスと結ばれていることの意味を覚え、その恵みに感謝したいと思いますし、またすべての方が、この祝福に与っていただきたいと、心から願っています

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