2020年07月05日「イエスこそ神から遣わされた方」

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イエスこそ神から遣わされた方

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 2章22節~24節

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イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 2章22節~24節

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<説教要約>
使徒言行録2章22-24節 (新約 P215)
説教 「イエスこそ神から遣わされた方」  
朝の礼拝説教が「使徒言行録」に入りました。そこで使徒言行録のおおまかな流れを記しておきます。
使徒言行録の始まりは、キリストの昇天に続くペンテコステの出来事、弟子たちに聖霊が降ったところから始まります。神は「わたしの霊を注ぐ」(使徒言行録2:17)と言われていますから、注がれた霊は神の霊であり同時にキリストの霊でもあります。
また使徒言行録は、地上教会の始まりの記録です。教会の始まりはエルサレムです。7章くらいまでがペトロを中心としたエルサレム教会の話です。8章にエルサレム教会に大迫害が起こったと記されています。キリスト教徒に対するユダヤ教側からの迫害です。迫害から逃れるために信者たちは散り散りバラバラにエルサレムから各地へと散っていきます。この人々と共にキリストの福音も広がって行ったのです。ということは、教会の迫害も神のご計画の内のこと。エルサレム教会の信徒たちにとっては大きな苦難でしたが、その苦難が用いられて、福音が進展し、神の国が進んで行ったのです。このように、迫害という教会にとってマイナスと思えることが、福音宣教が広がっていく契機となったのです。私たちキリスト者にとっての試練が神の国の進展に用いられることがあるのです。
今全世界を脅かしている新型コロナウィルスの流行も、私たちの目には悪しきことと移り、それ以外の何物でもありません。ウィルス流行のために、以前のような礼拝ができず、聖餐式も今年の2月以降中止しています。ですがこれも神の計画の中で起きていることですから、やはり何か意味があるのでしょう。エルサレムから散って行った弟子たちは、迫害から逃げながらも先々で神の福音を語り伝えたと記されています。そうであれば私たちも、このコロナ危機の中で、神に信頼して生活すること。そういう中で福音の力を信じ、証ししていくことが求められているのかもしれません。
ペンテコステで、120人の弟子たちに聖霊が降った後、ペトロは集まってきた人々に向かって語り出しました。2章14節からがペトロの説教です。先週は14節から21節までをみましたが、ここで、ペトロは、聖霊が降るという出来事は突然起こったことではなく、旧約聖書の中ですでに預言されていたことの成就だと説明します。ヨエルの預言によれば、聖霊が降るという出来事は、世の終わりのしるしだと預言しています。それで、預言の最後は21節「主の名を呼び求める者は皆救われる」と結んでいるのです。
 ペトロはそこまで語ると、再び「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。」と呼びかけなおします。ここからが肝心のイエスの話です。ヨエルの預言の最後「主の名を呼び求める者は皆救われる」の「主」についての説明です。ペトロは、ヨエルの預言にある「主」こそが、ナザレのイエスだということを人々に証明しようとしているのです。

「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。」 ペトロは、イエスが神から遣わされた方だとうことを証明します。それは、イエスが地上に生きておられる間になさった多くの奇跡や不思議な業やしるしが、神がイエスを通してなさったことだという言い方で。その業を通して、神がイエスを遣わされたと証明していると語ります。
さらに、イエスが行った奇跡や不思議な業やしるしはあなた方も知っているはずだと。イエスの十字架からまだ50日しかたっていないのですから、イエスがなさった奇跡や不思議な業やしるしと言えば、皆心当たりがあったのです。みんなが知っていたということです。福音書を見ると、イエスがなさった様々な奇跡や不思議な業、しるしが記されています。私たちは聖書を読んでイエスが示されたしるしを知るのですが、今この場でペトロの説教を聞いている人たちは、実際にそのしるしが行われたところに居合わせた人たちなので、イエスがなさった多くの「奇跡や不思議な業やしるし」を実際に知っていたのです。そして、ペトロは、イエスがなさった奇跡や不思議な業やしるしは、神がイエスを通してなされたことだから、神がイエスを遣わされた証拠だと論じているのです。
さらに、23節でペトロはもう一つの大切なことを指摘します。
「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡された
のですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」
(2:23)イエスは、ユダの裏切りによってユダヤ教指導者たちの手に引き渡され、裁判にかけられ、最終的にはローマ総督であったポンテオ・ピラトによって十字架につけられました。しかしそれは成り行きなどではなく、神が定めておられたご計画だったといいます。
神の救いのご計画、それは旧約聖書の最初にある創世記、最初の人類であるアダムとエバの話にまでさかのぼります。最初の人類であるアダムとエバは、神と共にエデンの園で幸福に生きることができる者として造られ、園のすべての木の実を食べることがゆるされていました。唯一の禁止事項は「善悪の知識の木の実」を食べることだけでした。しかし二人は蛇に化けたサタンの言葉に騙され、「善悪の知識の木の実」を口にしました。それは神の言葉を信頼せず、自分の意思を優先する行為であり、神に背を向けることでした。神から心が離れたのです。そしてこれが人類最初の罪です。彼らの罪はやがて人類全体に広がりました。人類の不幸の始まりです。
しかし、神はその直後にこのように言われたのです。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15)。わかりにくい表現ですが、これが原福音と言われる最初の契約。神が人に約束なさった救いの計画です。女の子孫が、人間を誘惑した蛇(サタン)の頭を砕き、サタンに勝利するという意味で、女の末から人間として生まれる神の御子・イエス・キリストのことを指しています。このように、イエス・キリストの十字架と死。これは、神がお造りになった最初の人類が神のもとを離れた直後に神が計画なさったことで、ペトロはここでそのことを指摘しているのです。

さらにペトロは24節で、キリストの復活に言及します。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(2:24) キリストが復活されたこと。これも、その場にいるほとんどの人が知っていることでした。ですからペトロはここでキリストの復活を当然のこととして語っています。そして理由を、イエスが死に支配されたままでいることはありえなかった、と説明します。この箇所を読み解くために、同じようにイエスの復活を語っているペトロの別の説教を見たいと思います。使徒言行録3章15節です。
「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。」(使徒3:15)。ここで「導き手」と訳されているギリシャ語は、「先頭を行くもの」とか「造り主」という意味もあり、ペトロはここで、イエスは命の導き手、命の造り主だと説明しています。この説明を今日の箇所にも適応するなら、命の造り主なるお方が、死に支配されたままでいることはあり得ない、という説明になります。

今日の所では、特に、キリストの十字架と死は、神がお定めになった計画だったということを覚えたいと思います。それも、何千年も前からの神の救いの計画だったのです。
昔、聖書入門講座か何かで、ある青年と話していた時のことです。彼は、神が、背いたアダムとエバをそのままにしていたのはどうしてかと質問しました。神は自分に背いた人間を何故リセットなかったのだろうかというのです。リセットとは、「最初からやり直すこと」。あるいは「状況を切り替えるためにいったんすべてを断ち切ること」。つまり、アダムとエバを見捨てることですよね。神がそれをしなかったのはどうしてなのか? という問いです。私は一瞬考え込みました。ああそういう解決の仕方もあるんだ、と改めて思った次第です。でも神がそれをしなかったのは、ご自身がお造りになった人間をあきらめなかったということですよね。そして、神は本当に長い年月をかけて、ご自分がお造りになった人類を取り戻そうとしたのです。それが救いの計画です。私たちが考えられないほどの年月をかけて、しかし着実に実現したのです。
そこには、人間に対する神の忍耐があり、これこそが、人間に対する神の愛という以外に表現できないのだと思います。
ヨハネ福音書に、このように記されています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)

もう一か所、詩編8篇4-5節も記しておきます。
あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。

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