2023年05月21日「探せば見いだせる神」
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探せば見いだせる神
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- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
使徒言行録 17章24節~34節
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聖書の言葉
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
17:27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。
わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
それで、パウロはその場を立ち去った。
しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 17章24節~34節
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<説教要約>使徒言行録17章24-34節「探せば見出せる神」
今朝は、パウロのアテネ伝道、アレオパゴスでの説教の続きです。
24節から29節が説教の本論ですが、まず、24-25節でパウロは、まことの神について、順を追って説明していきます。
まず、天地万物をお造りになったのは神であるから、神は人が造った神殿には住まないこと。
次に、神はなんでもおできになるので、人に仕えられる必要がないこと。
逆に、神がすべての人に「命と息と、その他のすべての物」(25)を与える方であること。
次に26‐29節で、この神を正しく求めるべきであると教えます。
神は1人の人(アダム)からすべての民族を造り出し、四季、季節を与え、人の住みか、居住地を整えてくださいました。このようにして、人が安心して生きられるのは神の愛であり、配慮であり、「人に神を求めさせるため」である。神はこのように、神の側から人に対して、愛と配慮を示しておられるので、「人は神を探し求めれば、神を見出すことができる。」と。
しかしここでは「探し求めるならば」という条件が付いています。ただ、ぼーっとしてるだけでは、人はまことの神を見出すことができず、偶像礼拝になってしまう。それが今のギリシアの状況だとパウロは言いたいのです。
このあと、28節でパウロはギリシヤ詩人の詩を引用して語ります。
17:28 皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。
ここでの「神」とは「ゼウス」のことですが、パウロはこの詩を用いてまことの神を示そうとしているのです。パウロは神の近さを知らせるために「神の中に生き、動き、存在する」と表現しています。
また、「我らもまたその子孫である」とは、ギリシヤ人がゼウス神の子孫だという信仰ですが、それを聖書的に解釈しなおして、ギリシヤ人の宗教心をとらえようとしているのです。
パウロは「人は神のかたち」であるという聖書の人間観を下敷きにして、ギリシア人が受け入れやすいように語りかけているのです。
17:29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
と語って、神を人の技や考えで勝手に作り上げることこそが愚かなんだと伝えようとしているのです。
このように、まことの神について語ったうえで、パウロは彼らに悔い改めを迫っています。30-31節です。
17:30 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。
17:31 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
今まであなた方は、まことの神を知らずにいたので、人間がつくった神々、偶像を神として拝んでいた。
神はそれを、今までは大目に見てくださっていた。しかし、神がお選びになった一人の方、イエス・キリストを通して、彼の死と復活によって、神は救いと裁きを定められたのです。
だから、あなた方に今、悔い改めが求められている。パウロは、イエス・キリストの十字架の死と復活は、悔い改めへの招きであると語ったのです。
パウロの説教を聞いた、アテネの人々はどうしたでしょうか?
17:32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
アテネの人々は、「死者の復活」ということを聞いたとたんに、態度が変わりました。彼らは魂の不滅は信じていますが、人間の体、肉体は俗的で醜いものと考えていたので、死者の復活と聞いて、嘲笑い、パウロから離れて行ったのです。ギリシア人にとって、「死者の復活」は信じるに値しない事柄、彼らにとってつまずきだったのです。こうして、パウロのアテネ伝道は終わりました。
「探せば見いだせる神」これが今日の説教題です。ですが、先ほどもお話ししたように、神を見出だすには「探し求めるならば」という条件が付います。人の心には、何らかの形での宗教心はありますが、自然のままで、まことの神にたどり着くことはできません。神を求める信仰心があっても、結果として偶像礼拝になってしまいます。これは日本の現状を見てもわかることです。ですから、まことの神を求める必要を伝えることと、まことの神を示すこと、証しすること。この両方が必要です。
そこでもう一つ大切なことが27節後半に記されています。「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」と言葉です。人がいくら探し求めても、神が遠く離れているならば、見出すことは困難です。しかし、キリスト教の神は遠いところから、無関心に地上を見ているだけ、人を見降ろしているだけの神ではないのです。イエス・キリストが人となって、私たちのところへ来てくださったことからも、それが明らかです。そして今、聖霊という形で、私たちの近くに、またこの礼拝の場にもおられます。
ですから、人は捜し求めさえすれば、神を見いだすことができるのです。
また、今回のアテネ伝道は、多くの回心者を得るという点では失敗でした。教養あるギリシヤ人が復活のメッセージを拒んだこと、そこで躓いたと、ルカははっきり記しています。
それでもパウロは、語るべきことを割り引くことなく「イエスの復活について福音」を語りました。
福音宣教、キリスト教信仰は、「愚かさ」と表現されることがあります。人の常識や教養が邪魔をして、受け入れられない事柄があるからです。
パウロはコリントの信徒への手紙で「十字架の言葉の愚かさ」について語っていますが、今日の箇所も同じことがいえると思います。
コリントの信徒への手紙1:18-25を引用しておきます。
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。