2020年06月28日「預言の実現としての福音」

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預言の実現としての福音

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 2章11節~21節

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すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 2章11節~21節

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使徒言行録2章14-21節 (新約 P215)
説教 「預言の実現としての福音」   

1.序
先週は、120人のイエスの弟子たちに聖霊が降った、というお話でした。
大切なことは、120人全員に聖霊が与えられたということ。そして彼らは、力を与えられて、キリストの証言、福音を語ったということです。
その場に居合わせてそれを見た人々は、二通りの反応を示しました。
ある人々は「いったい、これはどういうことなのか」。つまり起こった出来事に関心を持ち、その意味を知りたい!と思った人々。
別の人々は、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざけり、心を閉ざしたのです。後者の人々は、この事件に係わることなくさっさと家路についたでしょう。かれらは自ら、救いの機会を手放してしまったのです。
「このことの意味をもっと知りたい」と思った人々はその場に残りました。
すると、その人々に対してペトロが語り出したのです。それが14節以下です。

今日は14節から21節までを見ていきますが、前半と後半に分けて考えます。前半が14節、15節。これは話の前置きです。後半は16節から21節までで、旧約聖書、ヨエル書の預言についての解説です。
「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。」とあります。イエスの生涯の目撃者であり、証人の役割が与えられた12使徒の代表として、ペトロが話をしたのです。ですから、他の11人も一緒に立っていました。
ペトロは「声を張り上げ、話し始めた」とあります。
「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」(使徒2:14)
イエスが逮捕された時にイエスを知らないと言い、イエスのそばから逃げ去ったあの時とは別人のような、堂々としたペトロです。これが聖霊の力なんですね。ペトロは臆することなく、大胆に語り出しました。
「あなたがたに知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」
そしてまず、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている」という言葉に反論しています。
「 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」(使徒2:15)と。 
日本には「あさざけ」などという言葉もありますから、あまり説得力がないようにも思います。しかし当時のユダヤの人々の生活から考えるとそうではありません。
当時律法を守って生活しているユダヤ人であれば、1日に3回祈りの時間があります。それが、朝9時、昼12時、午後3時の3回です。ですから、朝9時と言えば祈りの時間です。また、食事は1日2食。朝食は大体10時くらいから12くらいの間、今でいえばブランチですね。それと夕食です。ですから、朝9時と言えば、朝食前になります。朝の空腹な時に、しかもお祈りの時間に、100人以上もの人が酒に酔っているはずがない、というのがペトロの主張です。

17節以下では、旧約聖書にありますヨエル書の中に、聖霊が注がれるという預言があることを指摘し、この出来事がヨエル書の預言の成就だと説明するのです。
使徒言行録2章17節から21節は、旧約聖書にあるヨエル書3章1-5節に記されている預言の言葉です。
ヨエル書3章1-5節をゆっくり読みますので、使徒言行録の17-21節と比較してみてください。
①ヨエル3:1-5
3:1その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。
3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

ペトロの言葉、2章17節から21節は、ヨエル書とほぼ同じで、ここからの引用ということはすぐにわかります。とくに登場人物に関して、「あなたたちの息子と娘」。「若者と老人」。「奴隷となっている男女」は「わたしの僕やはしため」という言葉になっていますが、同じことですね。
で、そういう「すべての人に神の霊が注がれる」ということを、旧約の預言者ヨエルが預言していたのです。
ヨエル書の預言を確認したうえで、それが今日、聖霊が降るという形で成就したのだとペトロは証言しているのです。
神の霊が注がれる、降る、というのは、この時が初めてではありません。旧約時代にも神の霊が注がれることはありました。しかしそれは王様とか、預言者とか、特別な人に対してでした。
ですがヨエルの預言では、特別な人だけではなく、「あなたたちの息子と娘、老人、若者、奴隷に至るまで、神の民であるすべての人に、神は「わが霊を注ぐ」というものです。
これが旧約時代の霊の注ぎとは違うところです。
さらに18節を見ると、神の霊が注がれると、「彼らは預言する」と続くのです。
「彼らは預言する」この言葉はペトロが挿入したもので、ヨエル書にはありません。ペトロが今の状況を説明するために挿入した言葉です。
ここでペトロが言いたいことは、今朝起こった不思議な出来事は「すべての人に神の霊が注がれた」という出来事の始まりだということです。そして、この出来ごとによって神の霊が注がれた人は、神のことばを預かって、キリスト証言をするようになったのだ、と言っているのです。

もう一つ大切な言葉があります。
17節の初め、「神は言われる」に続く「終りの時に」という言葉です。この言葉、ヨエル書にはありませんやはりペトロが今の状況を分かりやすく伝えるために挿入した言葉です。
では「終りの時」とはどういう時でしょうか?
「時」と訳されているギリシャ語は「時」とか「日」などと訳される言葉ですが、それが複数形になっています。ですから正確に訳すと「終りの時々」とか「終りの日々」というのが正確です。
ちなみに、聖書の世界観は、神による創造で始まり最後に終末、終わりを迎えるというものです。仏教などのように輪廻転生でくるくる回る世界観とは違います。キリスト教は直線的ではじめと終わりがあるという世界観です。
聖書は、今私たちが生きているこの世界には終わりがあると教えています。それを「終末」と言い、その時キリストの再臨と裁きがあり、そして新しい世界が来ると教えています。
新約聖書の終わりの方にヘブライ人への手紙という所がありますが、そこにこんなことが記されています。
②「ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(ヘブライ9:26)
こう言う箇所から、キリストの十字架と復活は、終末へと向かう「終りの日々」が始まったことが分かります。キリストの十字架と復活があり、そして約束の聖霊が注がれたからには、これはもう今の世界は終わりの日に向かってすすんでいるのです。
終わりの日々の中で、終末に向かうしるしとして、大災害や天変地異が起こるということは、イエスがご自身の説教の中で教えておられます。
それが2章19-20節にあたります。
終末、終わりの日に向かう世界では天変地異が起こります。そういうことの後に、キリストが再臨され、神の審判があり、終わりの日となるのです。
終わりの日に向かう中で、いろんな困難な状況があるのですけれど、そういう中でも「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒2:21) 。これがここでペトロが一番言いたいことです。
人生の中で、心から信頼してその名を呼び求めることができる存在を持っていること。これほど心強いことがあるでしょうか。ですが、その存在が本当に頼れる方かどうかが大問題です。
22節以下でペトロは、この「主」とはどなたなのかを説明しています。
この先は来週の説教に回しましょう。

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