2023年04月09日「人生 死で終わらない」
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人生 死で終わらない
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- 木村恭子 牧師
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マルコによる福音書 16章1節~8節
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聖書の言葉
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 16章1節~8節
メッセージ
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<説教要約> マルコ福音書16:1~8 「人生 死で終わらない」
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
今朝は、ご一緒に、イースターの朝のできごとを確認し、それが私とどう関係するのかをお話しします。
お読みしたマルコ16章1-8節は、十字架で死んで葬られたイエスの墓が空だった、という話です。
イエスは確かに十字架にかけられ、死なれたのです。そして墓に葬られました。そのことは、何人もの人が確認しているのです。
また、特にイエスの十字と死、そして葬られた場所まで、女性の弟子であるマグダラのマリヤとヤコブとヨセフの母マリヤは見届けていました。彼女たちは、もっと丁寧にイエスの遺体を葬りたいと考えていました。しかし安息日になってしまうため、それができなかったのです。ユダヤの律法では、安息日の行動が厳密に制限されていましたから。
安息日は金曜日の日没とともに始まり、土曜日の日没とともに終わります。イエスの遺体が葬られたのは、金曜日の日没ぎりぎりでしたから、墓におさめるのが精いっぱいでした。そこで彼女たちは日の出を待ちました。「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」のです。「週の初めの日」とは、今でいえば日曜日のこと。ユダヤ教徒はいまだに週の最後の日、7日目を安息日としていますが、キリスト教では、イエスの復活が週の初めの日、日曜日だったので、日曜日を主の日、神を礼拝する日と定めました。。
しかし彼女たちには心配なことがありました。それは、墓の入り口に置かれた大きな石の事。
自分たちの力でそれを動かすことができるだろうか。あるいは、誰かが動かしてくれるだろうか。もしかしたら、墓の前にいる番兵に止められるかもしれない。いろんなことを心配しながらも、しかし彼女たちは、夜が明けるとすぐに墓へ急いだのです。
16:4「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。」彼女たちが墓に着いた時、大きな石はすでにどかされていました。誰がどのようにして動かしたのかは記されていません。
彼女たちの心配は、神の手によって既に解決が与えられていたのです。
墓に着くと躊躇することなく墓の中に入っていきましたが、そこにイエスの遺体がありません。彼女たちは確かにイエスの遺体が葬られたのを見ていたのに。
16:5 「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」。とあります。白い長い衣を着た若者とは、もちろん天使でしょう。天使は彼女たちに言いました。
16:6「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
イエスはもはや、十字架に着けられたナザレ出身の人ではないのです。イエスは、十字架につけられ死んだままではなく、暗い墓の中にいるのでもない。
この時、イエスは死に勝利して復活し、栄光の中にいたのです。この出来事の意味を、パウロという人がこのように解説しています。
コリントⅠ15:54b-55 「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
5節の後半には、「婦人たちはひどく驚いた」とあります。この驚いたという言葉は、ただ「びっくりした」という意味ではありません。おそれを伴う驚きを表現する言葉です。彼女たちは、天使の言葉を聞いてびっくりしたのではなく、驚き恐れた。おびえたのです。
16:8「 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」とあり、婦人たちの恐れと驚きの様子がさらに詳しく記されています。
彼女たちは、墓の中にイエスの遺体がなかったこと、そして天使の言葉が常識では考えられない内容だったので、恐れのあまり、体がガタガタと震え、正気を失うほどの状態になったのです。
十字架でのイエスの苦しみ、死んだイエスの姿、そして埋葬された様子までをしっかり見守ってきた彼女たちでしたから、彼女たちの驚きと恐れは、当然でしょう。
8節にはそして、だれにも何も言わなかった。とあります。
彼女たちがことの真相を納得理解するまでに、天使の言葉を理解するには、時間が必要でした。
そしてこのことの持つ意味を理解するには、さらに時間が必要だったはずです。ですから、彼女たちはだれにも何も言わなかったのです。しかし、彼女たちはこのことをずっと黙ったまま、秘密にしていたわけではありません。彼女たちは男の弟子たちが集まっている場所に行って、ことの次第を伝えたのです。このあとの彼女たちの行動は、他の福音書に記されています。
ではなぜ彼女たちは天使の言葉をすぐに信じることができなかったのでしょうか? それは、人は死んだらそれで終わり。生き返るはずはない、それが常識、普通のこと、と思っていたからですよね。
そして、このできごとから2000年以上たった今も、多くの人はそう考えています。地上生涯の終わり、肉体の死で人の人生は終わりだと。
しかし、聖書はそのように教えません。
パウロという人が、キリストの死と復活の意味、それと私たちとの関係を記しているところがあります。
コリントの信徒への手紙一 15章20節から22節です。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」
イースターの朝、婦人たちに最初に知らされた出来事。キリストの復活は、ただキリストが復活したというだけのことで終わりません。それは、すべての人の初穂でもある、というのです。
この言葉は、キリストの十字架の贖いと罪の赦しを信じ、受け入れた人は、キリストに結ばれて、復活の希望があることを示しています。
地上生涯の死は、すべての終わりではありません。キリストを信じる者には復活の希望があり、キリストに結ばれて永遠の命の希望があるのです。これは、キリストを信じて先に召された愛する人々と再会する希望がある、ということでもあります。
イースターは、イエス・キリストの復活をお祝いすると同時に、私たちに与えられている復活の希望を喜び祝う日でもあります。 人生は、死で終わらない、まだ先があるのです!!
ヨハネ 11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。