2023年04月02日「渇く 成し遂げられた」

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渇く 成し遂げられた

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 19章28節~30節

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この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 19章28節~30節

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<説教要約> 聖書:ヨハネ福音書19章28-30 「渇く 成し遂げられた」
今朝はイエスの十字架、受難を覚える礼拝です。今回はヨハネ福音書から十字架の意味を考えたいと思います。

イエスは、12弟子のひとりであるユダの裏切りによって逮捕されました。
逮捕された場所は、ヨハネ福音書には「ギドロンの谷の向こうにある園」と記されています。イエスは逮捕され、アンナスの家に連行されました。
アンナスはイエスに弟子のことや教えについて尋ねました。彼の関心は「イエスの教え」より「イエスの弟子」についてでした。つまりこの世的なイエスの力、影響力、あるいは勢力に関心があったのです。
その後、イエスは大祭司カイアファのもとへ送られ、ペトロの記事をはさんで、ピラトの尋問が記されています。イエスは金曜日の夜半過ぎに逮捕され、大祭司のところへと連行されたのが午前2時過ぎ。そしてピラトのところに着いたのは金曜日の明け方です。

ピラトの尋問は、18章28節から19章16節まで。他の福音書より詳しく記されています。ピラトの尋問の中心は「お前がユダヤ人の王なのか」です。当時はローマ帝国が絶大な勢力を誇っており、ローマ皇帝がその中心にいました。そして、このユダヤを実質的に支配しているのは、ローマ総督であるピラトでした。ですから、彼の関心事は、この世の支配者としてのユダヤ人の王、にあったのです。
ピラトは、イエスに向かって何度も「お前がユダヤ人の王なのか」と問いました。しかしイエスの答えは「わたしの国は、この世には属していない。」というものでした。
しばしのやり取りがあり、ピラトがさらにイエスに問います。
37節、38節。「そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』 ピラトは言った。『真理とは何か。』」
ピラトはここで、とても大切な質問をしています。「真理とは何か」と。
しかしせっかくこの質問をしたのに、答えを聞くことをしませんでした。

ですが、ヨハネ福音書にはすでにこの問いへの答えが記されています。イエスは弟子たちに、すでにこのことを教えておられたのです。
ヨハネ14:6です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
つまり、「真理」とはイエスご自身であり、もっと突き詰めますと、イエスの十字架のことです。
イエスご自身は、十字架を通して神を証しするためにお生まれになりました。そして、神に属するもの、神の民はイエスの言葉を聞くのです。

しかしピラトはイエスの言葉を遮り、ユダヤ人たちに言います。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」と。そして過越祭の慣例に従ってイエスを釈放しようとしますが、ユダヤ人たちは承知しません。
ピラトは何度も「わたしはこの男に罪を見いだせない」と言いましたが、最終的にピラトはユダヤ人たちの言いなりになったのです。そしてついにピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡したのです。19章16節の後半から、イエスの十字架と葬りが記されていますが、今日はここを見ることはできません。ぜひ、今週ゆっくりと読み味わってください。
今朝は、残りの時間で19章の28節から30節、十字架におかかりになったイエスの、最後の場面を見ましょう。
19:28a「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。」主イエスは、神の裁きを一身に負い、神に完全に捨てられた状況の中で「渇く」という言葉を口にされました。
この時イエスの体は衰弱し、渇ききっていました。しかしそれ以上に、神に裁かれ、見捨てられた魂の渇きが激しかったのです。

この「渇く」という言葉、実はヨハネ福音書では重要な言葉です。二か所引用します。
一つはヨハネ福音書4章に記されているイエスとサマリアの女性の会話です。
ヨハネ4:13-14「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」
ヨハネ7:37b-38「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」
イエスは、渇いている者に水を与える方、それも「永遠の命に至る水」を与えるお方です。その方が十字架上で「渇く」と言われたのです。
つまり、イエスご自身が渇くことによって、イエスを信じ従う者たちにイエスは「永遠の命に至る水」を与えてくださるのです。
イエスは最後に「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。これは、28節後半の言葉「こうして、聖書の言葉が実現した。」とありますように、旧約聖書に記されている神の救いの約束が、イエスの十字架によって実現したということ。イエスが渇くことで、わたしたちがもう一度神と和解する道が整った、ということです。
エフェソ1:7「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」

このようにして、ご自身が渇くことで救いの道を完成してくださった主イエスが、今私たちに語っておられる言葉、主イエスの招きの言葉を確認いたします。
黙示録 21:6「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」
黙示録22:17b 渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。

ここまで駆け足でイエスの十字架と、その周囲の人々のことを見てきました。イエスに敵対したユダヤ人指導者や、彼らに先導された民衆たち。ローマの兵士たちやローマ皇帝の目を恐れたピラト。ところで、イエスの弟子たちはどうしていたのでしょうか。実はどの福音書にも、イエスの十字架の時、イエスの周囲に弟子たちの名はほとんど記されていません。わずかにペトロの名が。それもイエスを知らない!といったペトロの記事です。ということは、弟子たちもイエスの周りから逃げ去っていたのでしょう。
そういう中で、しかし、イエスは、悠然と十字架への道を進んでいかれました。
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と言い残して。
どうか皆様方がイエスの言葉を聞き続け、その言葉に従って生きることで、渇くことのない水、永遠の命の水を受ける者となりますように。

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