示された道
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
使徒言行録 16章6節~10節
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聖書の言葉
さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。
ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。
それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。
その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 16章6節~10節
メッセージ
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<説教要約>使徒言行録16章6-10節「 示された道 」
先週の説教からパウロの第二回伝道旅行の話に入っています。
彼らはシリア州やキリキア州を回って教会を訪問しました。
今回は陸路だったので前回とは逆回り、デルベ、リストラ、イコニオンと進み、そこで前回伝道した町を訪問し終えました。そしてこの後一行は、まだ訪ねていない、アジア州の町々への伝道を考えたのです。
ところで、「アジア州」とありますが、今の私たちの感覚での「アジア」とは違います。新約聖書で「アジア州」と言うと、現在のトルコ半島の西の端の地域を指します。当時ここはローマ帝国「アジア州」と言われた地域で、中心はエフェソでした。
「イコニオン」に着いた一行は、そこからさらにアジアで伝道をしようとしたのです。けれど、6節「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とあります。それで仕方なく、7節「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとした」と、北上しようとしたんですね。しかし、それも「イエスの霊」が「許さなかった。」というのです。8節「それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。」
パウロたちが行こうと計画した町に行くことが出来ない事情、状況が次々に起こってきたのです。そして、次々に計画を変更しなければならなかったのです。聖書には、「聖霊から禁じられた、イエスの霊がそれを許さなかった、」と短い言葉で書かれています。しかし、状況を具体的に想像してみますと、そう簡単なことではなかったはずです。
教会のフォローアップのためかつて伝道した教会を順番に訪問しました。それが終わって、今度は近隣への伝道を始めようとすると、次々に何かの事情でそれが妨げられ、行く先が決まらないのです。一体どこへ行ったらいいのか、あるいは、このまま帰る方がいいのかと、途方に暮れる状況だったと思います。
そうして、最終的に行きついた所が、「トロアス」という町でした。
トロアスはエーゲ海に面した港町で、海を渡ればもうヨーロッパという場所でした。やっとのことでトロアスについたその夜、パウロは幻を見ました。
9節その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
10節 わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
ここに至って初めて、パウロたちは、神のご計画を知り、自分たちに与えられている働き、召命を確認することができました。ここまでの歩みがすんなりいかなかったのでなおのこと、一行は神の召しを確信できたのです。こうして行き先が示されると、一行はマケドニア伝道への召しを確信し、迷うことなく、マケドニアへ出発することにしたのです。
パウロたちがトロアスヘ導びかれたこと、そしてマケドニアに渡ること、これは、パウロの伝道にとって大変に大きなことです。
ですが、ここでクローズアップされるのは、パウロではなく、聖霊の導きを通して実現していく、神様のご計画と神の御業です。
伝道の働きも、又私たちの歩みも、主導権は神の側にあります。
神がご計画を持っておられ、人は聖霊によって導かれていくのです。
しかし、先が見えないから、私たちは苦労したり、心配したりするのです。
今置かれている状況の意味が分からなかったり、先が見えなかったりすると、どうしても不安になります。
特に、苦しい中にあるとき、病や痛みの中にあるときには、神様なぜですか? どうしてですか? いつまでですか? と祈りたくなります。
もちろん、そう祈ることは間違いではなく、率直に祈る必要があります。
しかし、私たちの思いを超えて、神様の側には目的と御計画があります。
また、様々な神様の側の配慮があります。聖霊の導きがあります。
ところで、皆さまは、かつて改革派教会から派遣されて、インドネシアの神学校で奉仕なさった後藤公子先生をご存知でしょうか? まだ改革派教会が女性教職を認めていないとき、ウルトラシーで「女性宣教師」として派遣した姉妹です。
以前、後藤先生がインドネシアへ導かれるまでのお話を聞く機会がありました。
その中で先生はこんなことを話しておられました。「わたしは、いつも将来的な、確かな見通しをもって、歩んできたわけではありません。でも、霧の中を歩んでいるように感じる時でも、いつも一歩踏み出すには十分な主の導きがありました。神様の導きは一歩ずつ明らかにされたのです。」と。
ローマの信徒への手紙8章28節にこう記されています。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
この28節は前の節から続いている文章で、主語は「聖霊」です。ですから、「聖霊は、神を愛する者たちと共に働いて、万事を益としてくださる」と読むべき箇所です。
私たちは、自分の人生の先の先まで見通すことはできません。
しかし、キリストを信じ、神に従って生きようとしている者たちを神は愛しておられ、その人の歩みを導いて万事、益としてくださるのです。
ですから、つらい状況で先が見えなくて苦しい時でも、神を見上げ、神の約束に期待して、前向きに歩んでいきたいのです。