2023年03月12日「評判の良い若者 テモテ」

問い合わせ

日本キリスト改革派 川越教会のホームページへ戻る

評判の良い若者 テモテ

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 16章1節~5節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。
パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。
こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 16章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>使徒言行録16章1-5節「 評判の良いテモテ 」 

先週の話では、パウロとバルナバがマルコを連れて行くかどうかで対立して、二人が別々にバルナバはマルコを連れて出発し、パウロはエルサレムに帰ったばかりのシラスを協力者に選んで出発した、という話でした。聖書の記述を見る限りでは、喧嘩別れのような出発で残念ですが、そこにも「すべてを益としてくださる神の働きがあることを覚えました。

それで16章からは、パウロとシラスの伝道旅行の話です。16章1節の前半。「パウロは、デルベにもリストラにも行った。」
前回は、船でキプロス島を回って小アジアに入りましたが、今回は陸路を進みました。パウロの生まれ故郷であるタルソスを通ってデルベを通り、リストラ、イコニオン、と進みました。前回とは逆回りです。
「パウロは、デルベにもリストラにも行った。」と簡単に記されていますが、3千メーター級の山脈を越えなければならないような、大変な旅です。
1節後半。「信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。」テモテは「信者のユダヤ婦人の子」とありますが、これはユダヤ人女性で、しかもキリスト教信者、クリスチャンだということです。パウロが第一回の伝道旅行でこの地を訪問した時に、パウロの話を聞いてキリスト教信仰を持ったと考えられます。一方で彼の父はギリシア人。テモテは、ユダヤ人女性と異邦人であるギリシア人男性の結婚によって生まれた子供、ということです。ユダヤ教の律法に照らせば、外国人との結婚は禁じられていましたから、この女性はユダヤ教世界ではアウトローということになりますが、当時そういう女性は多かったようです。それでも、テモテへの手紙Ⅱ3:14-15を見ると、彼は幼いころからお母さんに聖書を教えられていたことがわかります。彼は幼いころから唯一まことの神がおられること、やがて救い主が与えられることを教えられていたのでしょう。そして、パウロの伝道によってイエス・キリストが約束のメシア、救い主であることを知り、罪の赦しを教えられて、祖母、母、そしてテモテと親子三代でキリスト教信仰を持ち、洗礼を受けてクリスチャンになっていたのです。ですから、ルカは16章1節の最後で「テモテという弟子がいた」記すのです。

さらに、2節では「彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。」とあります。
テモテは、リストラとイコニオンという、30キロ以上離れた町の両方で「兄弟の間で評判の良い人であった」というのです。これは、テモテが一般的な好青年ということではなく、キリスト者兄弟の間で、つまり教会という信仰共同体の中で「評判の良い人」ということです。
この評判が、この地の教会を回ったパウロに聞こえてきたときに、「パウロはテモテを一緒に連れて行きたい」と思ったのです。前回のマルコのことがありますが、それでもパウロは、若い伝道者を育てる必要を感じていたのだと思います。
ところが、ここでパウロはおかしなことをしました。
16章3節「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。」
パウロはテモテを連れて行くために、彼に割礼を授けたのです。
初めにお話ししたように、テモテはギリシア人の父と、ユダヤ人の母の間に生まれた子供です。こういう場合、生まれて8日目に割礼をすれば、子どもはユダヤ人として認められます。しかしテモテの母はそれをしませんでした。あるいは、父がさせなかったのかもしれません。
ですから、テモテはユダヤ人社会では異邦人扱いです。それでも、外国に住んでいれば、たいした問題ではなかったはずです。
また、キリスト教信仰にとって、割礼の有無は問題ではないというのがパウロの強い主張でしたし、エルサレム会議の結論でもあったからです。しかも、パウロはこのエルサレム会議の決定をこの地でも伝えていたのですから。
それではなぜ、パウロはここでテモテに割礼を授けたのでしょうか。

パウロは、エルサレム教会からやってきたユダヤ人キリスト者が、アンティオキア教会の異邦人キリスト者に「割礼を受けなければ救われない」と教えたことに激怒しました。それがエルサレム会議のきっかけでした。「救いに割礼の有無は問題ではない」とパウロはっきり断言しています。
そうだとすると、ここでのパウロの行動は、矛盾しているのではないか、と思いますよね。
ですが、パウロにはもう一つ、大切にしている原則があります。
それは、福音伝道という視点での原則です。
一コリント9章19-23節を読むとそれがわかります。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」
パウロはテモテを伝道者として育てようと考えています。そして伝道には、当然ユダヤ人も視野に入っています。ですから伝道者としてテモテを育てるに際して、彼には割礼を授ける方がいいと考えたのです。

福音宣教は、伝道は、社会から孤立しては成り立ちません。この世の人々から遠く離れていては伝道できないということです。人の中に入っていくこと、人に寄り添うことが必要です。その人と同じ視線に立たなければ、福音は伝わりにくいのです。
「何とかして何人かでも救うため」これが伝道の原動力です。
コロナが収まりつつある今、私たちの教会もできることから始めたいと思っています。
今の私に、又私たちに何ができるのか。何が求められているのか。祈りつつ考えていきたいと思います。皆様も一緒に考えてください。

ともあれ、パウロはテモテをメンバーに加えて伝道旅行を続けます。
16:4-5「 彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。」
パウロ一行の働きが用いられ、信徒たちの信仰が強められ、それが教会の成長へとつながっていったのです。
一人一人の信仰の成長が、教会の成長へとつながることも覚えたいと思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す