「主にあって喜ぶ」「主において喜ぶ」と訳し分けられていますが、どう違うのでしょうか? もちろん、もともとのギリシャ語聖書は一緒です。ギリシャ語ではまず、喜ぶという動詞が命令形になって先頭にあります。「喜びなさい」です。その後にevnという前置詞があって、そのあとに「主」という言葉が続きます。それで、そのevnという前置詞をどう訳すかで翻訳に違いがでているのです。 あるいは、英語の方が分かりやすい方もいらっしゃると思うので、二つの英語の聖書を見ましょう。 【NKJV】 New King James Version では、Rejoice in the Lord always. 【TEV】 Today' English Version では May you always be joyful in your union with the Lord. いろんな聖書の翻訳を比較すると「主にあって喜ぶ」ということが具体的に想像しやすいですよね。 特に、英訳の聖書を見ると NKJVでは、in the Lord。 TEVでは、in your union with the Lord。 TEVは少し説明的になっています。 このように、わたしたちが喜べるのは「主の中にあって」、あるいは「主に結ばれ」が前提です。 主イエスから離れたところでの喜びが全くないとは言いません。しかし、主から離れた喜びは、一時のもの、地上的なもの、やがて過ぎ去るものだということを覚える必要があります。
<説教要約>マルコ福音書11章20-25節「 信じて祈る 」
今日は2023年の川越教会のテーマと聖句について考えます。
2023年の川越教会テーマは「主にあって喜び、祈ろう」
テーマ聖句はマルコ福音書11章24節の前半「祈り求める者はすべて既に得られたと信じなさい」です。
まず、テーマ「主にあって喜び、祈ろう」の前半、「主にあって喜び」について考えましょう。
一か所聖書を開きたいます。フィリピの信徒への手紙4:4
新共同訳聖書: 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。ここは「主において常に喜びなさい」となっています。
しかし、口語訳聖書や新改訳聖書では「主にあって喜びなさい」なんですね。
口語訳:あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
新改訳:いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
「主にあって喜ぶ」「主において喜ぶ」と訳し分けられていますが、どう違うのでしょうか?
もちろん、もともとのギリシャ語聖書は一緒です。ギリシャ語ではまず、喜ぶという動詞が命令形になって先頭にあります。「喜びなさい」です。その後にevnという前置詞があって、そのあとに「主」という言葉が続きます。それで、そのevnという前置詞をどう訳すかで翻訳に違いがでているのです。
あるいは、英語の方が分かりやすい方もいらっしゃると思うので、二つの英語の聖書を見ましょう。
【NKJV】 New King James Version では、Rejoice in the Lord always.
【TEV】 Today' English Version では May you always be joyful in your union with the Lord.
いろんな聖書の翻訳を比較すると「主にあって喜ぶ」ということが具体的に想像しやすいですよね。
特に、英訳の聖書を見ると
NKJVでは、in the Lord。 TEVでは、in your union with the Lord。 TEVは少し説明的になっています。
このように、わたしたちが喜べるのは「主の中にあって」、あるいは「主に結ばれ」が前提です。
主イエスから離れたところでの喜びが全くないとは言いません。しかし、主から離れた喜びは、一時のもの、地上的なもの、やがて過ぎ去るものだということを覚える必要があります。
では、「主に結ばれている」とは、具体的にはどういうことでしょうか。
イエスをキリストとして、わたしの救い主として信じる信仰によって、わたしたちは今、主なる神と結ばれている。主とともに生きている。 あるいは、主の前に生きている。 いろんな言い方ができますが、そういう現実の中で生きるということです。
しかし、残念なことに、日々の生活の中で、私たちは、「主にあって」を覚えているわけではない。自覚しているわけではない、という現実があります。
ですから、「主にあって喜ぶ」ことをわざわざテーマとして設定しなければいけない、ということが起こるのです。
では、わたしたちが「確かに主と結ばれている」ことを覚え続けるために、どうすればいいでしょうか。
神は、そのために私たちに恵みの手段を与えておられます。何度もお話ししている通り、恵みの手段とは、み言葉と礼典と祈りです。この三つを用いることで私たちは「主にあって」を実感できるのです。
その中心は教会生活、ピンポイントでは礼拝です。私たちが教会生活を大切に生きるとき、み言葉と礼典と祈りを中心に日々を送る時、私が今「主に結ばれている」という確信となります。そして、主と結ばれた喜びを覚え続けることができるのです。
私は、特別な事情や連絡がなく、信徒の方が礼拝を休まれると、とても心配になります。
礼拝出席は信徒の義務でありますが、それ以上に「恵み」です。礼拝は信仰の命綱であり、恵みをいただく場だからです。
教会生活、礼拝中心の信仰生活が、私たちの日々の喜び、ひいては永遠の喜びへとつながっていくことを、覚えて励むことが「主にあって喜ぶ」ことにつながるのです。
次に、後半の「祈ろう」について、テーマ聖句との関係で関係で考えたいと思います。関係するのはマルコ11章22~24節です。
ここでイエスは弟子たちに、祈りについて教えています。
イエスはまず「神を信じなさい。」と言われました。そして23節。「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」
ここは、いくつかの解釈があります。
「山」は困難なことの象徴であるとか、「山が海に移る」は誇張表現のたとえであるとか。
あるいは、ゼカリヤ書14章4-5の預言との関連で、終末のときのことを言っているのだ、という解釈も。ここで、主イエスが「山が海に移る」ということを、どういう意味で言われたのかは、はっきりしません。
しかし、教えておられるのは、〈疑わず〉〈言ったとおりになる〉、〈すでに受けた〉という信仰をもって、神をそういう方と信じて、祈りなさい! ということです。
ですが「祈り」は、私から神への働きかけではないし、まして私が神を動かすという行為ではありません。
何度も祈っているうちに、私の願いが神を動かして、神が願いを聞いてくださる、ということではないのです。実際にはその逆で、私の祈りにおいて神が働いてくださる、いえ、祈る前から働いておられるのです。
神が、私に願いを起こし、祈らせてくださるのです。
神が私に祈りを与え、私をその祈りにおいて用いてくださる、そのようにして、私の祈りが神に用いられていくのです。ですから、祈りがどうなっていくのか、どのように実現されていくのか、実現されないのか、その経過を注意深く見守ること。それとともに、自分の祈りが実現するために、私も努力をするのです。
その祈りに動かされる人が出る、ということも起こるのです。
今、私たちの教会では「30人礼拝、奏楽者、役員候補者、新来会者や求道者、求道の友」などなど、いろいろな祈りを重ねています。そのように祈る中で、それぞれの方が、課題の実現のために自分に何ができるだろうかと考え、行動していると思います。30人礼拝を祈る中で自分が礼拝出席に努力する。奏楽者を願う中で、奏楽奉仕を申し出てくださった姉妹。礼拝から離れている友に連絡してくださる方。役員候補者についてはどうでしょうか。これは配慮が必要なことなのでまずは祈り続けましょう。家族の救いについてはどうでしょうか? 祈りつつ何か働きかけをしたいものです。
このように、神が私に祈りを与え、私が信じて祈り、神が私たちを動かしてくださる。祈りにおいて「神が私とともに働いてくださる」ということが起っているのです。
今日の中心聖句は当然ながら、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」です。
〈疑わず〉〈言ったとおりになる〉、〈すでに受けた〉と信じて、教会の課題、家族の課題、それぞれの信仰の課題を祈ります。「祈り」を通して、私が神のご計画に加えられ、神の働きに用いられていく。
実際にそういうことが起こるのだということを信じて、神に期待して、今年一年歩んでいきましょう。