2023年01月29日「意見が対立するとき」
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意見が対立するとき
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- 木村恭子 牧師
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使徒言行録 15章1節~5節
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聖書の言葉
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。
エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。
ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 15章1節~5節
メッセージ
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<説教要約> 使徒言行録15章1-5節「 意見が対立するとき 」
今日の話は、意見の対立が起きたとき、初代教会の人々はどう対処したのか、という話です。
発端は15章1節。 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。というのです。
「ある人々がユダヤから下ってきた」とありますが、彼らはエルサレム教会からやってきたユダヤ人キリスト者です。彼らはある意味伝道熱心な人々だと思われますが、教会から正式に派遣された人ではないでしょう。そういう人々が、アンティオキア教会の異邦人キリスト者たちに、「あなた方は、割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えたのです。
それがパウロとバルナバの耳に入ると、2節、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。とあります。
この人々の主張は、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」というものですが、もっとはっきりギリシャ語を翻訳すると、「割礼を受けなければ、あなたがたは救いを得ることができない」となります。つまり、キリストの救いに割礼が必要か、不要か、という問題です。
2節に「激しい意見の対立と論争が生じた。」とあります。パウロとバルナバは、彼らの教えを聞いて、彼らの方から論争を仕掛けたのです。
このように教えていたのは、おそらくユダヤ教の中でもファリサイ派からキリストを信じた人々でしょう。
しかし、彼らの中には、旧約の教えから彼らなりの考え方がありました。
主なところを拾ってみます。
(1)「アブラハムへの祝福はすべての民族に及ぶ」という旧約聖書の理解です。これは、創世記のアブラハム契約の中で何度も神がお語りになっておられます。(創世記12章1-3節など参照)
(2)神はアブラハムとの契約の印として割礼を定めた。従って、アブラハムの子孫とは割礼を受けた者、という理解。(創世記17:9-11参照)
(3)イエス・キリストは、アブラハムの子孫であり、イエスも生まれて8日目に割礼を受けておられる。
(マタイ1:1、ルカ2:21参照)
(4)イエスは割礼を否定しなかった。
しかし、この話を聞いたパウロとバルナバは、彼らの方から論争を仕掛けたのです。こうして、教会の中で意見の対立が起きたのです。それも些細な問題ではなく「救い」に関すること。今の私たちの言葉で言うなら、「キリスト教教理の中心」部分での対立ですからうやむやにできません。この問題を解決するため、アンティオキア教会がとった手段は、この件について正式に協議することでした。
15章2節後半「この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。」とあります。
一行は、エルサレム教会へ向かう途中でも、教会に着いてからも、大いに歓迎されました。しかし、しかし
15:5 ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。とあります。
それで、さらに正式な会議が開かれることになります。続きは次週です。
今日の箇所から、ふたつのことを覚えたいと思います。
一つは、教会の論争を解決するために、彼らは「協議した」「会議をした」、ということです。
6節には「そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。」とあります。
詳しい話は後日になりますが、少なくとも強硬な人の意見や、多数派の意見でことが決まる、ということにはなりませんでした。正式な話し合いによる解決、という手段がとられたことが重要です。
教会の会議は、単に教会の人々の意見を一致させるためのものではありません。教会の会議は、神の御心を求める場です。話し合いの中で、様々な意見がだされる中で、聖霊が働かれて一つの結論へと導かれるのです。そして、それを私たちは神の意志、神の御心、と信じるのです。それが教会の会議です。
ですから、教会の会議では、自分の意見が絶対に正しいと主張するのではなく、自分と違う意見にも耳を傾ける謙虚さが必要です。
使徒言行録15章では、教会会議の結論を手紙で書き送ることにしましたが、その手紙にこう記しています。
使徒15:28 「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」ここ注意して読みますと、「わたしたちは…決めました」ではありません。「聖霊と私たちは…決めました」です。つまり、教会会議には聖霊がお働きになる。だから会議の結論は神の御心と言えるのだ、ということです。
もう一つのことは、今回の割礼の強要は、「今まではそう教えられてきたから」という面があると思います。しかし、イエスの十字架と復活、昇天を経て、聖霊が降り、聖霊が働かれる時代になって、割礼はすでに必要がなくなったのです。神の救いは、御国の完成に向かって進んでいく、という面があります。
ですから、「今まではそうだったから」「そう教えられてきたから」には注意が必要です。
私たちの改革派教会は、聖書に忠実に歩む教会です。
そうであるならば「今までこうだったから、これからもそうであるべき」という考え方は通用しません。
「今までこう教えていたけれど、それが間違っていた」と分かったなら、それを認めて、正すべきだし、改革派教会はそういう教派であるはずです。
割礼問題は、今まで必要だったから、これからもそうだ! というような話ではありません。それが以前はいかに重要であったとしても、です。
神の救いは進展する、先に進んでいくということも覚えつつ、私たちは注意深く聖書の教えを学び、受け止めることが重要です。