2023年01月15日「神に立ち帰れ」

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神に立ち帰れ

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 14章8節~18節

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聖句のアイコン聖書の言葉

リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、
「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。
群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。
町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。
「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 14章8節~18節

原稿のアイコンメッセージ

14章8節からが今日の箇所、リストラという町での出来事です。リストラはイコニオンから40キロほど南に下ったところにあります。
ここで二人は「足の不自由な男の人」に出会います。彼は「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。」と8節にあります。
この男の人は、パウロの話を聞きたくて、誰かに連れてきてもらったのか。あるいは偶然そこにいたのか。詳しいことはわかりません。当然ながら、パウロの話は世間話ではありません。彼はそのパウロの語る福音のことばを聞いたのです。
まことの神がおられること。神は私たちを愛しておられること。イエス・キリストを十字架につけ、わたしたちの命を救われたこと。そのイエスが死から復活し、やがて天に昇ったこと。聖霊が派遣されたこと。などなど、パウロがここで何をどのように語っていたのかはわかりません。しかしこの人は、パウロの顔を食い入るように見つめ、パウロが語るイエスの福音、まことの神の話を、一言も聞き洩らさないようにと真剣に聞いていました。
そして、パウロも彼に気づいていました。
9節に「パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」たとあります。そして彼に言いました。
10節 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と。すると、「その人は躍り上がって歩きだした」のです。

使徒言行録3章に、ペトロが美しの門の前にいた足の不自由な男の人を癒したという記事があります。その時の彼も同じように「躍り上がって立ち、歩き出した」と記されています。
両方に「躍り上がる」という同じ言葉が使われていますが、同じギリシャ語です。そして新約聖書ではもう一か所ヨハネ4:14にも同じギリシャ語がつかわれています。使徒言行録の2回は足の不自由な人の癒しの箇所での喜びの表現です。
ヨハネ福音書4章14節は、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
この「永遠の命に至る水がわき出る」の「わき出る」という言葉が、同じギリシャ語です。
生まれつき足が不自由で、一度も歩いたことのない人が初めて立ち上がり、歩いたときの喜びと、永遠の命に至る水がわき出る様子が、同じ言葉で表現されているのです。
足の不自由だった二人は歩けるようになって、躍り上がって喜んだのですが、二人に与えられた恵みは体の癒しだけではなく、それ以上のものでした。二人は自分の人生にイエス・キリストを迎え入れたことで、心に永遠の命に至る水が注がれ、わき出るまでになったのです。

しかし、この癒しがきっかけになって、町は大騒ぎになりました。町の人々はこの奇跡を見て、パウロとバルナバを「人間の姿をとってお降りになった神」と考えたのです。
11節 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。
12節 そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。
ゼウスはギリシャ神話の主神。ヘルメスはゼウスとマイヤの間に生まれた神で、雄弁なものの守護神だそうです。また、このリストラに関係した神話で「ゼウスとヘルメスが人間の姿をとって地上にやってきた」という話があったそうで、彼らの中でそれがつながったのです。
ですから、ゼウス神殿の祭司まで巻き込んだ大ごとになったのです。
13節 町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。
この状況に驚き、焦ったパウロとバルナバは、慌てて群衆の間に飛び込んで叫びました。
15節a「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。」
今日の事件は、癒しがパウロとバルナバによってなされたと人々が誤解したことから起こったことです。
ですが、これが、まことの神について語る機会になりました。パウロは、自分たちは普通の人間であること、そしてまことの神がどのようなお方であるかを語りました。それが15節後半から17節です。
15節に「このような偶像を離れて」とありますが、ここで「偶像」と訳されているギリシャ語は、「空しいこと」という意味です。パウロは、人間を神として崇めることは「空しいこと」。神でないものを神としてあがめることは「空しいことだ」と教えたいのです。
それでは、「まことの神」とはどのような「神」なのか。パウロは続けて教えています。
天地万物すべてをお造りになった方が、まことの神であり、この方を神とすべきと語ります。
そして、まことの神は、過ぎ去った時代、つまり過去においては、人間たちがそれぞれの思いで、それぞれのやり方で、自由に、神と思われるものを信じ拝むことを許してこられた。けれども、そういう中でも、まことの神は、すべての人に同じように恵みの雨を与え、季節ごとの実りを与え、食物を与えて、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっていた。
あなた方が、まことの神を知らず、背を向けていたときにも、神は、ご自身が造られた人間たちに、いろんな形で恵みを与えておられた。まことの神は、そういう神なのだとパウロは彼らに教えたのです。
14:18 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。というのが今日のところです。
今日の箇所では、異教徒への伝道、他の神々を信じる人に対してパウロがどのような語り方をしたのかに注意したいと思います。パウロはゼウスを信じる人々に対して、まず、まことの神がどのようなお方なのかを語りました。まことの神は、万物をお造りになった方。そして、私たちに善きものをお与えになっておられる神です。このことが、イエス・キリストの福音を信じる大前提です。

話は変わりますが、私の父は、家族の中で一人だけクリスチャンではありませんでした。父は、親兄弟や周囲の人に頼ることなく、自分で道を切り開いて会社を経営し、家族を養ってきた人です。人間努力すれば大概のことはできるというのが、父の人生観だったと思います。ところが、その父が、84歳前後から体調を崩し、入退院を繰り返すようになりました。そういう中で父は「努力しても手に入らない物がある。それが健康であり、命だ」ということを理解したのだと思います。
あるとき「美しい山や自然の景色を見ていたら、それを造った神がいることがわかる」と言い、そして母や私が信じているキリストを受け入れて病床で洗礼を受け、それから約2年の闘病生活を送り、この世の旅路を終えて魂は天の御国へと移されたのです。

今日のリストラでのパウロの話と、また私の父のことを思い合わせて考えるとき、伝道には神が定めておられる方法と、ときがあることを覚えます。特に個人への伝道は、それをよく見極めることが求められるのです。どこから語り始めたら、どのように語ったら、どのタイミングで話したら、福音がその方の心に届くのかを見極めること。そのためには、その人に心を寄せて祈っていくことが必要です。

そして今日のテーマ聖句は「あなたがたが、このような偶像(空しいもの)を離れて、生ける神に立ち帰るように」です。

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