2023年01月08日「神を頼みとして」
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神を頼みとして
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- 木村恭子 牧師
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使徒言行録 14章1節~7節
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聖書の言葉
イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。
ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。
町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、
二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。
そして、そこでも福音を告げ知らせていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 14章1節~7節
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<説教要約>2023年1月8日使徒現行録14章1-7節「 主を頼みとして 」
使14:1 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。
パウロの第一回伝道旅行の話です。パウロとバルナバはここでも、サラミスやピシディアのアンティオキアと同じように、まずユダヤ教の会堂で福音を語りました。パウロは異邦人伝道に召されていましたが、同胞であるユダヤ人の救いも願っており、反対され、迫害されてもなお多くの町で、まずユダヤ人会堂へ行って福音を語っています。そうすることで、神に選ばれているユダヤ人も、ギリシア人も、福音を信じキリスト教信仰を持つことになったのです。
14章1節後半には「その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。」とあります。
しかし、ここでも迫害が起こりました。一部のユダヤ人が異邦人を先導して、パウロたちに悪意を抱かせ、福音宣教を妨害したのです。けれどパウロたちはイコニオンから撤退しませんでした。
14章3節前半に「二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った」とあります。
彼らは不信仰と悪意を持つ者たちの妨害の中で、神の助けを求め、忍耐して、一定期間とどまって福音を語りました。神の助け、神の力を求め、忍耐して福音宣教を続けたのです。
そして3節後半「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。」とあります。主ご自身が彼らを用いて働かれたのです。神が、彼らにしるしと不思議な業を行う力をお与えになったのです。
その結果、4節「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。」つまり、町が二つに割れるほど、大勢の信仰者が生まれたのです。しかし、迫害も激しくなりました。
そして、以前ステファノが石打の刑で殺されたように、二人も石打の刑にされそうになったのです。しかし事前に気が付いて難を逃れることができました。それでも彼らは福音宣教をあきらめませんでした。
逃げた先の町や村でも、「福音を告げ知らせていた。」のです。
今日のところから、いくつかのことを学びたいのですが。
まず、伝道だけでなく、教会での働きは、神が人をお用いになってなされる神の業だ、ということです。
実際には神がしてくださるのです。
ここでも、直接語ったのは、あるいはしるしや不思議な業を行ったのは、パウロとバルナバです。
しかし、神が働かれたのです。
3節後半「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。」とある通りです。
ここに福音宣教の真理が記されています。つまり、福音宣教は神の業であって、人の業ではないのです。
しかし神が直接働かれるのではなく、信じた者が用いられてなされる神の業です。
そして、福音宣教に誰をどのように用いるのか、それをお決めになるのも神です。
旧約聖書の時代には、直接神が語ったり預言者を通して、神は働きを人にお示しになりました。あるいはくじなどで示されることもありました。ですからとても分かりやすかったと思います。
では今はどうでしょうか? 今は神が直接お語りになるということはありません。
では、どのようにしてわたしたちは、自分に与えられた神の召命を知ることができるでしょうか。
例えば、牧師になりたいと思ったときに、神が本当に自分を召しておられるのか。人は神からの召命を、どのように知ることができるのでしょうか?
神からの召命は、本人がそういう思いになっていることに加えて、外的にもそういう状況にあることで確認することができます。改革派教会ではこれを「召命の教理」といいます。
これは、牧師だけでなく、教会役員(長老、執事)に対しても同様です。
政治規準116条を記します。
『政治規準116条(召命の教理)教会における職務は、聖霊による神の召命によって任じられる。この召命は、通常、良心の内的なあかし、教会員による明白な認可、教会会議による判定をとおして明らかになる。
2.教会の政治は代議制であるから、教会役員を選出する権利は、教会員にのみ所属する。従って、いかなる場合にも、教会員の選挙あるいは少なくとも同意を経ないで教会役員を決めることはできない。
3.神は教会の役員を召されるとき、彼らに必要な賜物を与えて、種々の任務を行わせられる。従って、役員の候補者は、すべて会議の試験または試問を受けて、承認されなければならない。』
教会における職務(特に、教師、長老、執事)は、本人が望めばなれるというものではありません。
神が召し、働きを与えられるのです。ですから本人の自覚と、教会会議による判定が必要です。
会員総会で、長老選挙、執事選挙、牧師を招聘する時にも選挙があります。これが外的召命です。
同時に、本人の気持ちも大切です。自分がその働きに召されているかどうか、よく祈って神からの答えをいただくことが必要です。
そして、このようにして神からの召命を確認し、その働きに着いた時には、神の意志でその働きに召されたのですから、必ず神からの助けがあります。
161条3項にある通りです。「神は教会の役員を召されるとき、彼らに必要な賜物を与えて、種々の任務を行わせられる。」
神から委ねられた働きであるなら、必ず神の助けがあります。働きに必要な賜物を与えてくださいます。
もちろん、初めから完璧に仕えられるということではありません。しかし支えてくれる人、教えてくれる人、一緒にやってくれる人が与えられます。そして少しずつ成長していくのです。
必要以上の謙遜は美徳ではありません。神を信頼していないということにもなります。
特に教会役員の場合は、神に信頼して踏み出すこと、働きを始めることが大切です。少しくらい自信がなくても、大きな障害がなければ、前向きに召された働きを引き受けてください。
今日の箇所では、『神が私たちをお用いになることで、ご自身の働きを進めて行かれる』ということを覚えたいと思います。
今日の説教の中心聖句は14章3節。
使徒言行録 14:3 それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。
特に「主を頼みとして」というところが重要です。教会役員だけでなく、一人一人に様々な働きが主から託されています。ひとりひとりに神の体である教会の中で、担うべき働き、与えられている働きがあるのです。それは簡単にできる働きばかりではありません。しかし、どのような働きであっても、またどのような中でも、祈りつつ、「主を頼みとして」、主に期待して行うことが大切です。