2023年01月01日「とこしえの道に導いてください」
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とこしえの道に導いてください
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- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
詩編 139章1節~24節
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聖書の言葉
139:1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
139:2 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
139:3 歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
139:4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。
139:5 前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。
139:6 その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。
139:7 どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
139:8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
139:9 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
139:10 あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
139:11 わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
139:12 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。
139:13 あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
139:14 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。
139:15 秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
139:16 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。
139:17 あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
139:18 数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。
139:19 どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀る者。
139:20 たくらみをもって御名を唱え/あなたの町々をむなしくしてしまう者。
139:21 主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし
139:22 激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします。
139:23 神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。
139:24 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
詩編 139章1節~24節
メッセージ
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<説教要約>2023年1月1日 詩編139編「 とこしえの道に導いてください 」
一節に「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。」とありますので、この詩編139編、作者をダビデとして読んでいきたいと思います。
詩篇139編の構造に沿って、4つに区切ってみていきます。
(1)1~6節 神の全知の告白 何でもご存じの神
(2)7~12節 神の遍在の告白 どこにでもおられる神
(3)13~18節 創造の神秘と神の全能の告白 私に命をお与えになり、私を支えておられる神
(4)19~24 祈り 神に従う正しい歩みを願う祈り
(1) 1~6節 神の全知の告白 何でもご存じの神
1節から6節は、何でもご存じの神、神の全知の告白、賛美です。
2節の「座るのも立つのも知っておられる」は、神は、私の生活のすべてを知っておられる、ということ。
3節の「歩くのも伏すのも見分ける」とは、私の行動のすべてを神がご存じだ、ということ。
そして、4節「ひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる」は、私たちが言葉にする前の心の状態、心の思いまで神はご存じだ、という告白です。
5節「前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる」は、神にがんじがらめに捕らえられているということではありません。神が御手を置いてくださるのは、私たちを捕らえ縛り付けるためではなく、私たちを守り、祝福するためです。
6節「その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。」は、例えば戦いで町が包囲され,支配されるように、神の主権と支配が私を囲み、神の配慮が私の人生の歩みを包囲しているという認識です。
(2) 7~12節 神の遍在の告白 どこにでもおられる神
7節から9節は、私たちは神の前から逃れることができない、という告白です。
8節の「天」と「よみ」はこの世界の両極を表現した言葉です。神はご自身が創造された世界のどこにでもおられ、全世界を支配しておられるので、私たちが神から逃れようとしても、決して成功しないのです。
闇の中でも、神の光の輝きによって、私たちは照らし出されてしまいます。
私が、神から逃れて自由に生きようとして、信仰を捨て、教会から離れたとしても、それで神から逃れたことにはなりません。
(3) 13~18節 創造の神秘と神の全能の告白 私に命をお与えになり、私を支えておられる神
13~15節では、私が誕生する前から、私はすでに神のご計画の中にあり、神は私に目を向けておられたと、実に驚くべき告白です。
16節「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。」は、神のご設計の中に、ここでは「神の書物の中に」と表現されていますが、私がこの世に命を与えられるということそしてその後の人生の歩みまでが、すべて詳細に定められ記されているというのです。
そして、17節、18節は、神の配慮への讃美の言葉です。「あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。」
(4) 19~24 祈り 神に従う正しい歩みを願う祈り
19~22節は、神を畏れる者と畏れない者との間に、信仰の戦いがあることが記されています。
しかし、自分は、神を畏れ、神に従って歩みたいので、
23節「 神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。」と、神に知っていただくことを願っています。
そして最後24節は「御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」。
神に知っていただき、また同時に、正しい道へと導かれることを願い祈っています。「とこしえの道」とは、神に従う生き方であり、神と共に生きることで与えられる平和と命の希望。そしてこの道だけが、永遠の命に至る道。この祈りで詩篇139編は締めくくられています。
この詩編を記したダビデの生涯については、サムエル記上から始まって旧約聖書のいろんなところで記されています。聖書にしるされているだけでもいろんなことがありました。
ダビデの人生を考えるとき、思いどおりにはならないことは多かったし、自分の思い描く歩みができたわけでもなかったと思います。しかし、死期が近づいたときダビデは息子ソロモンにこんな言葉を残しています。
列王記上2:2-3 「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる。」
ダビデは、息子ソロモンに、「主の務めを守ってその道を歩み、主の掟と戒めと法と定めを守れ。」神に従って歩め、と命じているのです。そして、ダビデはこれが「祝福の道」、「とこしえの道」と考えているのです。
以前ジョイスで私が詩編139編のコメントを担当した時の文書も記しておきます。
『神に従って歩む人生は、自由がなく窮屈に感じられるということはないでしょうか? 若いころ、わたしはそんなふうに感じていました。
しかし、詩人は大きなスケールで神の御性質に目を向けながら、神に従って歩む人生の確かさを告白しています。神ご自身がわたしを存在させ、わたしのすべてをご存知の上で、配慮をもって歩みを導いておられるのだと。
けれど残念ですが、私たちにはそれが神の配慮と理解できないこともあります。そんな時、窮屈で理不尽に感じるのかもしれません。しかし、そうだとしてもそれもまた神の配慮の中でのこと、必ずいつか納得できる時が与えられるはずです。
139:17-18あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。 数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。』
神に従う歩みは、神の配慮の中に置かれているがゆえに確かであり、それゆえに大胆に歩んでいけるということです。
そして、詩篇139編の最後、祈りの言葉の最後は「どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」です。この年、神は川越教会を、又私たちを、どのように導かれるでしょうか。
しかし、私たちもダビデと同じように、神の導を信頼して、「どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」と祈りたいと思うのです。