2022年12月04日「ともに喜ぶ」

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さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 1章57節~66節

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<説教要約>「 ともに喜ぶ 」  
今日の箇所は洗礼者ヨハネの誕生記事です。洗礼者ヨハネは、旧約と新約をつなぐ重要人物です。
ですから新約聖書の4福音書すべてが、洗礼者ヨハネについて記しています。
旧約聖書に、洗礼者ヨハネについての預言が複数ありますが、その中の一か所を見たいと思います。
マラキ3:23-24 ここは、旧約聖書の一番最後です。
3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。
ここで、「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあるのが、洗礼者ヨハネのこと。このように、ヨハネは特別な働きを託されて誕生した人物です。

また、福音書の中で、洗礼者ヨハネの誕生記事を記しているのはルカ福音書だけです。
先ほどはルカ福音書1章57節から読みましたが、洗礼者ヨハネの誕生についてはまず1章5節から25節に記されていますので、そちらもお読みください。

洗礼者ヨハネの父は、エルサレム神殿に仕える祭司ザカリア、母はエリサベト。彼女も祭司の家系に生まれ育った女性です。ですから、旧約聖書の教え、神の律法などを熟知しており、この二人についてルカはこのように記しています。
6節「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」とありまして、二人が神に従って正しく生きようと努力していた夫婦だということがわかります。
しかし、二人らの間には子どもが与えられませんでした。二人は神にこのことを祈り続けたことでしょう。ですがその祈りはなかなか、かなえられず、年を重ねるごとに、子どもを持つという希望がだんだんと消えていきました。子どもがいない寂しさもあったでしょう。しかしそれ以上に、子どもが与えられるのは神からの祝福と考えられた時代です。ですから、神はなぜ、自分たちを祝福してくださらないのか。そういう悩みが二人の心に、又特に妻のエリサベトの心に、深く、重く、のしかかっていたのです。

ところが、祭司ザカリアが神殿で神に仕えている時、主の天使が現れて彼に語りかけました。
1:13-14「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」と。
加えて、その子は「主の御前に偉大な人となる」とも。
その子に与えられた使命は大変に大きなものでした。
1:16「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
1:17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
ザカリアは、この話に驚いたことでしょう。しかし同時に、彼自身はすでに体の衰えを自覚していたので、天使の言葉を信じることができませんでした。それで、印を求めました。すると天使は言いました。
1:20 「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
この言葉の通り、ザカリアは口がきけなくなりました。しかし、それは天使の話が真実である印、そして子どもが与えられるという印です。
勤めの期間が終わって家に帰ったザカリアは、聖所での出来事を妻エリサベトに伝えたに違いありません。
話すことはできませんでしたが、身振り手振り、あるいは板に字を書くなどして、必死になって天使の言葉を伝えたはずです。
結果は1章24節、簡潔にこうに記されています。「その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。」と。
妻のエリサベトも最初は半信半疑だったかもしれません。しかし自分の体が少しずつ変化していくのを自覚して、その話が真実だと確信していきました。それでも、「五か月の間身を隠していた。」とあります。すぐに騒ぎ立てたり、周囲の人々に話したりしないで慎重に行動しました。
こうして体も心も安定して過ごせるようになった時、彼女は言いました。
1章25節 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」
自分たちに長いこと子どもが与えられなかったのは、神が祝福しておられないということではなかった。
神はこんな風に、特別な形で子どもを与えてくださった。それも、特別に役割を持った重要な子どもを。
「神は確かに、わたしの歩みに、人生に、目を留めておられる!」彼女はそのことを理解し、確信し、感謝し、そして喜んだのです。こうして誕生したのが洗礼者ヨハネです。エリサベトが信じた天使の言葉、神の言葉の通りに、ことは実現したのです。ですから彼女自身、大きな喜びに満ち溢れていました。
それは、先ほどもお話ししたように、「神が、確かにわたしに目を留めておられる」ということを理解し、確信し、感謝し、そして喜んでおり、この喜びが、子どもを出産したことでさらに強められたのです。
エリサベトの喜び、「神が私に目を留めておられる」というこの喜びは、周囲の人々にも伝わりました。
1:58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
「喜び合った」と訳されている言葉は、「ともに」とか「一緒に」という言葉と「喜ぶ」という言葉が一つになったもので、「~と一緒になって喜ぶ」「喜びを共にする」「~の喜ぶことを同じように自分も喜ぶ」というように使われる言葉です。
年老いたザカリアとエリサベトの間に男の子が誕生したことを、近所の人々や親類は、自分のことのように喜こびました。ですがこれは、子どもが与えられたことの喜びだけではないはずです。
周囲の人々も「主がエリサベトを大いにいつくしまれた」と考え、神がこの夫婦を祝福されたとを一緒に喜んだのです。隣人の幸いを一緒に喜べること。これは本当に幸いなことです。
ですが、もっと大きなことは、神の御業を喜べるということです。
そして、神の御業をともに喜べる関係、これが主にある交わりの関係です。
教会の主にある交わりが、喜ぶ人とともに喜び、また泣く人とともに泣く。そうして互いに祈り合う交わりであってほしいと願っています。

そしてまた、神の御子の誕生という、大きな、大きな神の御業をともに喜ぶときが、クリスマスです。
御子キリストのご降誕は、神が罪人である人間に、そして私たちに目を留めておられることの証です。
このクリスマスの出来事を、救い主の誕生を、私たちに与えられた喜びと受け止め、ともに喜びながらクリスマスをお祝いいたしましょう。

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