2020年06月14日「働きの後継者」

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働きの後継者

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 1章15節~26節

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そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
詩編にはこう書いてあります。
『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』
また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 1章15節~26節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>
使徒言行録1章15-26節 (新約 P214)
説教 「働きの後継者」   

今日の箇所は少し長いのですが、前半と後半、二つに分けて考えます。
前半は15節から20節まで。ここには、イエスを裏切ったユダのことが記されています。
後半の21節から26節では、彼らが行った二つ目の備え。ユダの代わりに12弟子のメンバーを選ぶ話です。

先ず、15~20節までを見ましょう。
1:15そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
「兄弟たち」とありますが、もちろん血縁や肉親の兄弟のことではありません。
イエス・キリストを信じる信仰によって結ばれた家族のような関係。神の家族と言いかえることもできますが、そういう関係がこの時すでに意識されていました。

集まっていたのは120人ほどの人々。「一つになっていた」と訳されていますが、原文では「集まっていた」です。
この「120人」が男性だけの数なのか、女性を含んだ数なのかによって、意味合いが変わってきます。割礼を受けた男性だけの数だとすれば、大きな意味があります。当時のユダヤ教律法では新しい共同体、新しい一派を設立するために最低限必要な人数が割礼を受けた男性120人以上だったそうです。
ですから、この120人とは、彼らが既存のユダヤ教諸派とは一線を画した新しい共同体を設立しようとしていたことの意思表示と考えられます。
また、周囲も、このグループを「新しいユダヤ教の分派」とみなすようになったことが聖書や当時の歴史資料に記されています。
ですが、男女含めて120人ということであれば、教会のスタートの時に120人ほどの人がいた、ということになります。

16節から20節は、イエスを裏切ったユダの話です。
ユダの裏切りは、旧約聖書に預言されていることとして、詩編が引用されています。
また、18、19節は、ルカが使徒言行録を書くときに挿入した文章で、ペトロのことばではありません。
1:18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
1:19 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
大変血なまぐさい話ですが、「イエスを裏切ったユダは幸いな死に方ができなかった」といいたいのでしょう。

今日はユダの裏切りについて、聖書にしるされている範囲で、もう少し掘り下げたいと思います。
どうしてユダはイエスを売り渡すようなことをしたのか。そして、なぜこんな悲惨な結末になったのでしょう。
ルカ福音書の記述に注目したいと思います。22章3~6節
ルカ 22:3-6 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

この記述によれば、ユダの犯行はお金目当てだったようです。しかしマタイ福音書には、ユダが後になって後悔し、手にしたお金を返そうとしたという記述があります。
マタイ27:3-5 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
使徒言行録の方の記述と少し違いますが、どちらにしてもユダはイエスを売り渡したことで、不幸な最期を遂げたということです。

ペトロは今日の箇所で、ユダのことについて、16節で
「イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダ」と表現し、「イエスを裏切ったユダ」とは言いません。
確かにユダは、最初にお金をもらってイエスを捕える手引きをしましたから、一番目立った裏切り行為をしたということができるでしょう。しかし、他の使徒たちはどうだったでしょうか?
ペトロは逮捕されたイエスを3度も知らないと否認しました。これだって裏切りですよね。さらに、ユダ以外の11人の弟子たちは、十字架につけられるイエスのまわりから逃げ去っていたのです。
このように考えていきますと、イエスの12弟子に限ってみても、誰一人イエスと共に戦った者はいなかったのです。ですからそう簡単に「ユダの裏切りによってイエスが十字架につけられた」などと、ユダだけを攻めることはできないはずです。
17節で、ペトロは
1:17ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。
と語り、ユダが自分たちの仲間で、同じ任務、同じ働きが与えられた弟子であったと記しています。
では、実際にイエスを売り渡した後、そして自殺したとき、ユダの心はどうだったのでしょうか。
25節に「ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった」とあり、ペトロはユダが地獄に落ちたとは言いません。最終的にユダが救われたかどうか、それは、私たち人間が口にすべきでない領域、私たちにはかり知ることのできない事柄でです。
しかし、私たちはここで、人生の最後の瞬間まで、悔い改めて神に立ち帰るチャンスはある、ということを覚えたいのです。
神の意思は、人間を裁くことではなく、ご自身のもとへと立ち帰らせることです。旧約聖書のエゼキエルショにこのように記されています。
エゼキエル18:32 「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

ユダの話が長くなりましたが、話を戻します。
ここでは、これからの新しい働きのためにメンバーを整えることが重要でした。特に12使徒は人は、教会の土台となるキリストの証人だからです。
詩編の引用に1:20b『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』とある通りです。

21-22節には、使徒としての条件が記されています。
1:21-22主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。
使徒としての条件は、「ヨハネの洗礼から、十字架、死、復活、昇天まで一緒にいた人」。
該当する人が、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティア の二人でした。
この二人を候補とし、神に祈り、くじを引くとマティアが選ばれました。
今なら、教会会議で選挙ということになります。キリストの教会には聖霊による支配があるからです。
しかし、まだ聖霊が降る前ですから今と違います。神の意思を問うために祈ってくじを引くという方法は、旧約時代たびたび用いられた方法です。
こうして、イエスの公の証人としてマティアが補充されて、12使徒として新約の教会がスタートする準備が整ったのです。

今日の箇所からは、三つのことを心に留めたいと思います。
一つは、サタンに心の隙をつかれないように注意して生活しましょう!ということ。
神以上に大切なもの、頼りになるものへの過度の執着は、サタンの罠となります。
与えてくださるのも、取られるのも神ですから、私たちは神の恵みの中で満ち足りること、感謝して生きることが祝福となります。

二つ目のことは、神は、悔い改めて神に立ち返るなら必ず受け入れてくださるということです。
「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」が神の心、神の意思です。
人生の最後の瞬間まで、悔い改めて神に立ち帰るチャンスがあるのです。
イエスは、私たちの弱さ、私たちの罪のために、十字架にかかってくださったことを忘れてはなりません。
また、同時に、私自身が神に赦していただいているのですから、私たちも互いに赦しあいましょう。私も含めて、ここにおられる皆様方一人一人に、弱さがあります。お互い様です。ですから過去の過ちをいつまでも覚えていて、話題にするのはやめましょう。互いを認め、赦しあうことのできる神の家族として、前向きに歩んでいきましょう。

もう一つのことは、自分の働きに傲慢にならないように、ということです。
自分に与えられている働きを忠実に、自信を持って行うことは神に喜ばれることです。
しかし、そういう中で、私たちは傲慢になっていることがあります。この働きは私にしかできない。誰も代わりはできない、と思ってしまうのです。
ですが、神は、必ず働きを引き継ぐ者、働きの後継者を起こされるのです。
『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
ですから働きを誇るのではなく、私を用いてくださる神に感謝し、神の国に仕えられることを喜びたいと思います。神は、そういう私たちとともにいてくださり、働きを支えてくださり、喜んで下さり、そして報いてくださるからです。

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